静岡県内の「松下」の名字の詳細
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■ 県内38位: 松下(まつした)

# 静岡県内では、圧倒的に西部に多く見られる。【出典

# 宇多源氏佐々木氏流の松下氏は、佐々木近江守信綱の五男の氏信の孫の佐渡守宗氏の孫の頼頓が南北朝時代に、山名郡松下村(浅羽町)に住んで、鏡松下左衛門尉を号し、その孫の左京亮秀俊が遠江松下氏の祖という。「寛政譜」によると宇多源氏佐々木氏流の松下氏は、信綱の四男の泰綱の後胤の出雲守高長がはじめ笠原庄平川郷(小笠町)に住んで、後に三河国碧海郡松下に転じて松下氏を称したのが祖。高長の七代孫の源左衛門長則は今川義元に仕え、のちに北条氏康そして武田信玄に属した。その子の石見守(加兵衛)之綱は豊臣秀吉が日吉丸といっていた頃に仕えたという話がある松下加兵衛で、之綱は今川義元、氏真に仕え、頭陀寺(浜松市)城に住んだが、後に豊臣秀吉に仕えて天正18年から慶長8年までの13年間、遠江久野城主(1万6000石)となった。之綱の子の石見守重綱は烏山から陸奥国の二本松藩主となった。【出典】 

# 松下(まつした): 遠江国長生郡の国人。三河国碧海郡松下(愛知県)発祥で、宇多源氏佐々木氏の一族という。もとは、西条氏を称し、高長のときに松下郷に住んで松下氏を称した。之綱は今川義元に仕えて頭陀寺城(静岡県浜松市)城主になり、この頃に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)を寄食させたことで有名。今川氏の没落後、1568年に徳川家康に仕えたが、若い頃の縁によって豊臣秀吉に召し出され、1583年に丹波国・河内国・伊勢国で3000石を与えられた。1590年には遠江国久野1万6000石となった。之綱の長男の重綱は関ヶ原の合戦では東軍に属して本領を安堵されたが、1603年に許可無く石垣を築いたことで常陸国小張に転封となった。以後、1616年に下野国烏山2万8000石、1627年には陸奥国二本松5万石を経て、翌年に長綱が陸奥国三春3万石へ転封。1644年に長綱のときに乱心のため除封となった。のちに再興して、旗本。【出典

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