石川県内の「富樫」の名字の詳細 | |
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■ 富樫(とがし): 石川県の富樫家
# 石川県の富樫家: 藤原北家利仁流。加賀国富樫郷(石川県金沢市付近)をルーツとし、鎌倉時代後半には本家筋の斎藤家をしのぐ勢力を持った。南北朝時代には北朝に属し、加賀の守護に任ぜられた。戦国時代に一向一揆に敗れて滅亡した。【出典】
・ 加賀国の大名。藤原北家利仁流林氏の庶流。家国が富樫介となって富樫氏を称し、以後代々富樫介を名乗る在庁官人であった。中世には「とがせ」と読んだという。
本来、加賀国石川郡富樫郷(石川県金沢市)の開発領主で、加賀斎藤氏の庶流の一つに過ぎなかったが、承久の乱で嫡流の林氏が上皇方に付いて没落したことから勢力を伸ばし、鎌倉時代末期には加賀武士団の代表として畿内でも活動。国外にも所領を持っていた。
富樫高家は足利尊氏の六波羅攻撃に参加、1335年に加賀国の守護となった。南北朝時代も北朝に属したが、やがて斯波氏と加賀守護をめぐって激しく争った。さらに、1441年に富樫教家は将軍の足利義教の逆鱗に触れて失脚、弟の泰高が守護となったことで内紛がおこり、これに被官の国衆層や、幕府の細川氏・畠山氏も交えて対立、守護職を二分してそれぞれ半国守護となった。1488年には、正親は高尾城で一向一揆に敗れて自刃。守護職は泰高・稙泰と続いたが実権はなく、1531年に稙泰は追放された。跡を継いだ晴泰も1570年に一揆勢に滅ぼされて名実ともに滅亡した。【出典】
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