鳥羽藩
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■ 鳥羽藩(とばはん): 三重県鳥羽市

・ 「鳥羽」の地名

・ 稲垣家3万石・譜代大名

・ 1725年に下野国烏山から入封。

・ 稲垣重宗が今川家に仕え、その子の長茂が徳川家に仕えた。関ヶ原の戦いの後に、上野国伊勢崎藩1万3千石。大坂の陣の功で越後国藤井藩から越後国三条藩2万3千石。その後、上総国大多喜藩2万5千石から下野国烏山藩、志摩国鳥羽藩3万石へ。明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】  

・ 慶長5年守隆は家康に従って会津上杉攻めの途中、石田三成挙兵の報に西上することになり、兄成隆を人質に渡して家康に従った。父嘉隆は三成の再三の勧めで西軍に属し、父子敵味方に分かれた。嘉隆は紀伊新宮城主堀内氏善とともに守隆の鳥羽城を攻めてこれを奪ったが、関ケ原での三成の敗死後、鳥羽城を捨てて答志和具に隠れた。守隆は福島正則を通じて父の助命を願い出て死罪が許されたが、これに先立ち嘉隆は家臣豊田五郎右衛門に勧められ自殺した。守隆は会津攻めの従軍や桑名城攻略などの功により家康から旧領を安堵されるとともに伊勢国2万石加増され、嘉隆の隠居料5000石も合わせて5万5,000石を領有した。これが江戸期の鳥羽藩の立藩である。【出典

・ 寛永9年守隆は没し、長子良隆が跡を継いだが、病弱のため翌10年守隆の5子久隆を養子にして継領した。しかし、守隆の3子で伊勢朝熊金剛証寺の僧となっていた隆季が還俗して久隆と嫡庶を争い、家臣も両方に分かれる跡目争論となり、幕府に訴えたため幕府の裁決により、同10年久隆は摂津国三田3万6000石へ、隆季は丹波国綾部2万石にそれぞれ海のない国へ転封された。【出典

・ 九鬼氏のあと寛永10年譜代で常陸国真壁2万石の内藤忠重が3万5000石で入部した。忠重は二の丸、三の丸を増築して鳥羽城を近代城郭に整備したが、多額の出費を要したため年貢は8公2民の高率となり、夫米・水主米などの付加米を入れると鳥羽藩政の中でも極めて厳しい収奪であった。【出典

# 鳥羽藩士: 

# 鳥羽藩(とばはん): 志摩国。鳥羽城。稲垣家。譜代大名。3万石。控間:帝鑑間。格:城主。位階:従五位下。上屋敷:千代田区麹町。関ヶ原の合戦後に、九鬼守隆が本領を安堵されて立藩したが、お家騒動で転封になり、その後は譜代大名が交代で入って、享保10年の稲垣昭賢から稲垣家が八代続いた。【出典


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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