「江戸」の地名の由来
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■ 江戸(えど): 東京都東部の旧称。江戸時代の幕府の所在地。

・ 古くは、武蔵国豊島郡江戸郷。中世の豪族の江戸氏の居住地。1457年(長禄元年)に、太田道灌が江戸城を築城。1590年(天正18年)に、徳川家康が入城後に城下町として発達。1603年(慶長8年)に、江戸幕府の開設とともに政治的な中心地となって、神田・日本橋・京橋方面に市街を建設。1868年(明治1年)に、東京に改称。【出典】 

■ 「江戸」が、初めて歴史に登場したのは、治承四年(1180年)。鎌倉幕府の正史とされる、「吾妻鏡」に、8月17日の源頼朝の挙兵に応じた三浦義澄の居城の衣笠城(神奈川県三浦市油壷)を攻撃した秩父平氏一族の江戸太郎重長としてだった。相模国の石橋山で平氏に敗れた頼朝は、小舟でいったんは安房国猟島(千葉県鋸南町)に逃れたが、上総国下総国で勢力を回復して、9月17日には下総国の国府(千葉県市川市)に至り、利根川の河口部(東京の下町低地)で、対岸の武蔵国に渡河する機会をうかがっていた。江戸には、三浦攻め以来の宿敵の江戸重長の本拠地があった。【出典

■ 江戸以前の地名: 日本最古の地名辞典ともいう、和名抄には「江戸」の地名は出てこない。【出典

■ 徳川家康が江戸入りした直後に、親衛隊である番方(武官)の旗本の居住地区を、江戸城の西側に割り当てた。番方は一番?六番の組に分けて、これを番丁といった。その南の甲州街道の沿道は、中世から国府方(こうかた)とか、国府路(こうじ)と呼ばれた街村集落だったが、番丁の成立とともに、「麹町(こうじま、ち)」と改称された。そして、その北隣の集落も「飯田町(いいだまち)」と改称された。このように江戸時代初期の町地は「まち」と呼ばれた。しかし、幕藩体制の確立過程で、江戸の町地は「ちょう」と呼ぶ方針になった。同時に、町を「まち」と呼ぶ場合には、下級の幕臣の組屋敷(大縄拝領地)などを、その組名をつけて呼ぶときなどに使用された。「例:新宿区の納戸町(なんどまち)、払方町(はらいかたまち)」。【出典

■ 東京の沿岸には、古代からの浅草湊、中世には石神井川・平川河口の江戸湊、そして品川湊などが見られた。品川湊は目黒川の河口に堤防状の洲があり、それを防波堤や船着き場に利用していたが、須ができるということは湊が埋まるわけで、湊の規模には限界があった。【出典

■ 江戸

・ 豊臣秀吉の命で、江戸を本拠として関東六カ国(伊豆国、相模国、武蔵国、上総国、下総国、上野国)を領した徳川家康は、1590年(天正18年)八月一日に、府中から甲州道を通り、約1万の兵を従えて江戸城に入った。それ以来この日は、八月朔日を八朔(はっさく)として、江戸時代を通じて最も重要な年中行事として祝われるようになった。【出典

・ 当時の「落穂集追加」によると、「江戸城は海岸の波打ち際にあり、いたるところが葦が生い茂る湿地で、城下町を割り付ける場所は十町ほどもあるかなしの狭さだった」という。また江戸城についても、霊岸夜話に、「石垣など築候所とては、一カ所もこれ無く、皆々芝土居にて、土手には、木茂りあい」とある。【出典

・ 家康の入城時の江戸城下の範囲は、城の周囲と日比谷入江沿岸周辺に限られ、後に江戸の中心部となる現在の千代田区や中央区の一帯で、宅地になる部分は案外に狭かった。【出典

■ 江戸を支えた町の構成

・ 江戸の町割りの基本は、間口(60間)×奥行(20間)の1200坪が道路に向かい合って存在する2400坪であった。【出典

・ 町が面していた公道には「自身番(自治体の出張所)」があり、大家も必要に応じて詰めていた。町の出入り口には木戸があって、その脇にも木戸番が常駐する小屋(番小屋)があった。【出典

■ 江戸時代の自治システム

・ 江戸の自治は、町年寄(世襲)、名主、家主、町人で治められていた。【出典

■ 江戸四宿

・ 五街道の宿場のうち、日本橋から最初の継立(つぎたて)駅のことを「江戸四宿(ししゅく)」といった。街道ごとに、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道・奥州街道の千住宿、甲州街道の内藤新宿(高井戸宿)までを、日本橋の大伝馬町・小伝馬町と京橋の南伝馬町の三伝馬町が受け持ち、往復してその役務をつとめた。こうした伝馬業務の事務所は「問屋(といや)」と呼ばれた。この三伝馬町が(国役として)務めた業務経費は、それぞれの町の家持が間口に応じて負担したが、他の公的業務を課された町より極端に重かった。そのため、幕府から賃貸用の土地を与えられたり、助成金や融資を受けていたが運営は苦しかった。【出典

■ 江戸四宿

・ 品川宿: 目黒川の河口付近に位置した品川宿は、東海道の最初の宿駅で、日本橋から二里に位置し、次は川崎宿であった。宿場は、目黒川を挟んで北品川宿と南品川宿に分かれ、のちに北品川宿の北に「歩行新宿(かちしんじゅく)」が加わって三つの宿になった。江戸四宿の中は一番旅籠が多く、飯盛り女も多かった。江戸から近かったので、旅人だけではなく、江戸市中から来る人も多く、吉原の「北国」に対して「南国」や「南蛮」などと俗称された。【出典

・ 板橋宿: 板橋宿は日本橋から二里半に位置し、次の蕨宿までは二里十町だった。宿場は、平尾宿、仲宿、上宿からなり、石神井川にかかっていた「板橋」を中心に発展し、宿名や町名、区名のもとになった。【出典

・ 千住宿: 1594年(文禄3年)に、荒川に千住大橋がかけられ、奥州方面の交通が便利になった。千住宿は日本橋から二里八町、次の草加宿まで二里八町に位置し、いくつかの脇往還(脇街道)の分岐点にもなっていた。荒川と隅田川に挟まれた千住一〜五丁目がのちの本宿で、その後、掃部宿、河原町、橋戸町と小塚原町、中村町が加わった。【出典

・ 高井戸宿内藤新宿): もとは、甲州街道の最初の宿駅は「高井戸宿」だった。しかし、日本橋から四里もあり遠かったため、中継ぎの宿として内藤新宿が開設された。内藤新宿は日本橋から二里に位置し、四谷大木とより下町・中町・上町からなり、町並みは約1Kmの宿場で、上町の追分で青梅街道が分かれた。甲州街道の利用は、高島藩高遠藩飯田藩の三藩だけ。【出典

■ 江戸の範囲

■ 江戸の開発

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