| 江戸の範囲 | |
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■ 江戸の範囲
・ 1698年(元禄11年)に、町奉行の支配範囲を示す「榜示杭(ぼうじぐい)」が立てられた。これが江戸を府内と府外に分けた最初。これを立てた場所によって、この時点での江戸の範囲を知ることができる。だいたいの目安だが、「徒歩往復一日圏内」といわれる。【出典】
■ 最も古い江戸の地図は
・ 近世の江戸の市街地は、1590年(天正18年)に家康が入国してから、のちに大江戸と呼ばれる大都会になるまでに、約70年かかった。刊行された江戸の都市図で最古のものは、「武州豊嶋郡江戸庄図(俗称:寛永図)」で、家康の江戸入りから42年後の1632年(寛永9年)に成立。【出典】
■ 榜示杭が立てられてから約120年後、あらためて江戸の範囲が決められた。それまでも「御府内」という言葉があり、「城を中心にした江戸の市街地」といったような意味で使われていた。「御府内」とは、1804年(文化元年)の幕府の定義では、江戸城を中心にして四里四方の範囲。しかし、これでは漠然としていたため、1818年(文政元年)に、目付の牧野助左衛門から出された「御府内外伺」を受けて、幕府は地図上に「朱線」を引き、正式に府内と府外を区別した。これを「朱引」という。このときに御府内(朱引内)は、東は中川かぎり、西は神田上水かぎり、南は南品川町を含む目黒川辺り、北は荒川・石神井川下流かぎりとされた。【出典】
■ 町奉行の支配地
・ 町奉行の支配地は「黒線(墨引・すみびき)」で示された。東は永代新田村・猿江村辺り、西は下高田村・大久保村辺り、南は下高輪村・中目黒村・下目黒村辺り、北は箕輪村・駒込村・巣鴨村の辺りまでであった。町奉行が言い渡した「江戸払い」における御構(おかまい)場所(立ち入り禁止の範囲)は、品川・板橋・千住・本所・深川・四谷大木戸の内側だった。【出典】