| 東北地方 | |
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■ 東北地方
# 東北地方は昔の「陸奥国」と「出羽国」からなり、そう呼ばれていたが、戦国時代以降に、京都から見て「東北」の方向にあるので「東北地方」となった。
# 坂上田村麻呂の時代、中央の支配は今の岩手県のあたりまで及んでいたが、鎌倉時代には青森県の八戸周辺まで。そして青森県全域が支配下となるのは、戦国時代末期の津軽氏の登場を待つ。
# 昔、日本は「畿内・七道」に区分されていたが、東北地方はその中の「東山道」にあたる。ちなみに東山道とは「陸奥、出羽、下野、上野、信濃、飛騨、美濃」からなる。その時代、まだ東北地方には「蝦夷」という地方勢力が存在し、事実上中央の朝廷の勢力が及んでいなかった。
そのような時代、桓武天皇は東北征伐に力を入れ、797年に坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、802年には現在の岩手県奥州市に「胆沢城」を築いて蝦夷を平定した。
ちなみに、700年頃に朝廷の勢力が及んでいた範囲は、太平洋側の「菊多(勿来)の関」と日本海側の「磐舟(いわふね)の柵(き)」を結ぶライン。750年頃に朝廷の勢力が及んでいた範囲は、太平洋側の「桃生(ものう)城」と日本海側の「出羽柵」を結ぶライン。850年頃に朝廷の勢力が及んでいた範囲は、太平洋側の「現在の久慈付近」と日本海側の「現在の能代付近」を結ぶラインと言われている。
なお、当時の国府は現在の宮城県多賀城にあった。
# 東北は5回も中央から征服された
(1) 平安初期の坂上田村麻呂による蝦夷(アテルイ)の征伐。
(2) 前九年の役・後三年の役における、源頼義と源義家親子による清原氏の成敗。
(3) 源頼朝による藤原一門の成敗。
(4) 豊臣秀吉の奥州仕置き。
(5) 戊辰戦争における賊軍のあつかい。
# 南部藩と伊達藩の境
・ 岩手県謎解き散歩(新人物文庫)の一節に南部藩と伊達藩の領地の境を決めた逸話が載っていた。それによると、互いの領地が定まっていなかった寛文年間(1661−73)に、伊達政宗が南部利直に「双方が同じ時刻に『午』に乗って居城を出発し、出会った所を境界としよう」と、書状を送った。利直は盛岡から牛でノタリノタリと南下、政宗は仙台から午=馬でパカパカと北上。2人が出会ったのが北上市でそのあたりが境となった。
これは、南部藩と伊達藩の仲が悪いのを象徴する逸話だが、考えてみるとこれはおかしい。なぜなら政宗も利直も亡くなったのは1630年代だろう?
そもそも、土地勘の無い人にとっては、南部藩と伊達藩の境界が後に岩手県と宮城県の県境になったと思っちゃう。
もともと、岩手県も宮城県も昔は陸奥国で、岩手県に相当する陸中国と宮城県に相当する陸前国が分かれたのは明治維新後の話。この時、一関市付近が国境となったのには、なんらかの歴史的背景が有るんだろ。