佐賀県内の「鍋島」の名字の詳細
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■ 鍋島(なべしま): 佐賀県の鍋島家 

# 佐賀県の鍋島家: 佐賀藩主肥前国佐嘉郡鍋島(佐賀県佐賀市鍋島)をルーツとする。少弐氏を称すが、宇多源氏との説も。肥前国千葉氏を経て龍造寺氏に仕え、のちに重臣となった。【出典

・ 佐賀藩主。肥前国佐嘉郡鍋島(佐賀市鍋島)をルーツとする。少弐氏の一族と称しているが、宇多源氏佐々木氏末裔という長岡宗元が祖か。肥前千葉氏を経て龍造寺氏に仕え、佐賀郡本庄村(佐賀市本庄町)に住んだ。やがて、龍造寺氏と血縁関係を結んで、譜代の重臣となり、直茂は龍造寺隆信家臣団の筆頭の地位にあった。
1584年に龍造寺隆信が戦死すると、跡を継いだ政家は政治を鍋島直茂にまかせ、九州を制圧した豊臣秀吉も現状を追認して鍋島直茂に肥前佐賀35万7000石を実質的に支配させた。関ヶ原の戦いでは、直茂ははじめは西軍に属したが、後に東軍に転じて柳河城主の立花宗茂を討って本領安堵された。1607年に龍造寺本家が断絶した際に、子の勝茂に龍造寺家を相続させて、以後は名実ともに佐賀藩主を務めた。明治時代には侯爵。【出典

# 佐賀県の鍋島家: 鹿島藩主

・ 肥前鹿島藩主。1610年に勝茂の弟の忠茂が2万石を分知されて、旧領と合わせて2万5000石となり、鹿島藩を立藩した。1642年に正茂は5000石を残して2万石を本家忠直の弟の直朝に譲り、以後直朝の子孫が鹿島藩主となった。幕末の藩主の直彬は藩政の改革に成功した後、明治維新後は初代沖縄県令となった。その後、子爵へ。【出典

# 佐賀県の鍋島家: 小城藩主

・ 小城藩主。1614年に佐賀藩の初代藩主の鍋島勝茂の庶長子の元茂が7万3200石を分知されたのが祖。1640年に肥前小城藩を立藩。明治時代には子爵。【出典

# 佐賀県の鍋島家: 蓮池藩主

・ 蓮池藩佐賀市)藩主。1639年に佐賀藩の初代藩主の鍋島勝茂の三男の直澄が父から5万2600石を分知されて肥前蓮池藩を立藩した。明治時代には子爵。【出典

# 佐賀県の鍋島家: 佐賀藩家老で白石鍋島家。

・ 佐賀藩の家老。藩主一門白石鍋島家。初代藩主の勝茂の六男の直弘は成富頼武(茂安)の下で育てられ、1633年に正式に頼武の養子となった。その後、独立して一家を興し、三根郡白石(みやき町)で9000石余りを領して白石鍋島家を称し、家老となった。家禄は後に2万石あまりとなった。【出典

# 佐賀県の鍋島家: 佐賀藩主の一門で川久保鍋島家。

# 佐賀県の鍋島家: 佐賀藩主の一門で村田鍋島家。

# 佐賀県の鍋島家: 佐賀藩家老で横岳鍋島家。

# 佐賀県の鍋島家: 佐賀藩家老で神代鍋島家。

# 佐賀県の鍋島家: 佐賀藩家老で姉川鍋島家。

# 佐賀県の鍋島家: 佐賀藩家老で太田鍋島家。

# 佐賀県の鍋島家: 佐賀藩の親類格で武雄鍋島家。

・ 佐賀藩の親類格・武雄鍋島家。もとは武雄領主の後藤氏である。1577年に龍造寺隆信の三男の家信が後藤氏を継いで龍造寺一門となり、江戸時代には佐賀藩の家老となった。1699年に親類同格となって鍋島の名字を与えられた。以後武雄鍋島家と呼ばれた。家禄は2万6000石。明治時代には男爵。【出典】 

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