静岡県内の「井上」の名字の詳細
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■ 井上(いのうえ): 静岡県の井上家

# 静岡県の井上家: 遠江国浜松藩(6万石)の井上家は清和源氏頼季流で清宗の時に三河国に転じた。明治維新で徳川宗家が駿府に移動したのにあわせて上総国の鶴舞(千葉県市原市)に移動した。【出典

・ 遠江浜松藩(6万石)主。清和源氏の出で三河国に拠った。井上正就が徳川二代将軍の徳川秀忠の乳母の子であったため、取り立てられて譜代大名となった。【出典

・ 浜松藩主清和源氏頼季流。正就は生母が二代将軍秀忠の乳母だったことから、1589年に徳川秀忠に仕え、1615年1万石の加増されて大名となったのが祖。1622年に遠江国横須賀藩5万2500石を立てたが、1628年に江戸城西ノ丸で目付の豊島刑部少輔正次によって殺害された。その後、1645に常陸国笠間、1692年に美濃国郡上、1697年に丹波亀山、1702年に常陸国下館、同年常陸国笠間、1747年磐城平を経て、1756年に遠江国浜松6万石に入封。その後、陸奥棚倉、上野館林を経て、1845年に浜松に再入封した。1868年に上総鶴舞6万石に転じた。明治時代には子爵。【出典

# 井上氏には、信濃国高井郡井上村発祥の清和源氏流や、同じく清和源氏流で三河国の安倍氏流など、諸流見られる。【出典

# 1184年に、信濃国発祥の井上頼季の四代孫の光盛は駿河国の蒲原の戦いで討ち死にした。掃部頭は1399年に戦功をたてて、以来今川義元桶狭間の戦いで討ち死にする1560年まで井上氏は今川氏の家臣だったが、義元の死後、甲斐国井上郷に落ちて武田氏に仕えた。【出典

# 三河国の安倍定吉の側妾が懐胎のまま頼季の後裔の三河国の井上清宗に嫁いで、生まれたのが半右衛門清秀。清宗、清房は横須賀(大須賀町)城主の大須賀康高に仕え、清秀の三子の重成、正就、正重は共に徳川氏に仕えた。正就は秀忠に仕え、横須賀5万2500石を領し、元和3年には老中になり、子孫は各地を転封の後、正経のときに浜松6万石で幕末を迎えた。【出典

# 今川家の家臣の継隆は、天文永禄年間のころに、用宗の代官をつとめた。【出典

# 伊豆国田方郡湯ヶ島(天城湯ヶ島町)の井上氏は、明和年間に四国から来住したという。【出典】 

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