山梨県の戦国史
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■ 山梨県の戦国史

# 甲斐国は鎌倉時代から代々武田氏守護職をつとめた。しかし、室町時代中期には守護代跡部氏の力が強まり、また国衆層との抗争や、武田一族の内訌などもあって不安定な時代が続いた。【出典

# 武田信縄は、父の信昌と弟の油川信恵と対立していたが、永正2年(1505年)に信昌、永正4年には信縄があいついで死去すると、12歳で信縄の跡を継いだ長男の武田信虎は、翌年に叔父の油川信恵を討ち取って武田氏を統一した。さらに都留郡の小山田氏や巨摩郡の大井氏を降し、石和から甲府に転じて躑躅ヶ崎館に拠って武田氏を再興した。【出典

# そして天文元年(1532年)に甲斐国を制覇すると、関東での北条氏上杉氏の争いに介入した。天文5年には今川氏内訌に際して義元に与して、娘を今川義元の室に送り込んだ。その後は、信濃国に進出、諏訪氏と結んで信濃国佐久郡に侵攻した。【出典

# 天文10年(1541年)に武田信虎今川義元に嫁いだ娘を訪ねるために駿河国を訪れると、長男の晴信(武田信玄)は国境を閉ざして父の信虎を追放、国衆層の支持を得て家督を相続した。天文16年には「甲斐法度」を定めて領国経営に乗り出し、永禄7年(1564年)に信濃国、永禄11年には駿河国を傘下に収めた。元亀3年(1572年)に、信玄はついに上洛を試みたが、翌年信濃国伊那郡駒場で客死した。跡を継いだ武田勝頼は、天正3年(1575年)の長篠合戦で徳川・織田の連合軍に大敗して、以後は勢力が衰えた。天正6年には上杉氏の家督争いに関して北条氏と断絶、天正10年に織田信長に敗れて長男の信勝とともに天目山で自刃して滅亡した。その後、甲斐国は河尻秀隆に与えられたが、まもなく本能寺の変が起きたため河尻秀隆は武田家の遺臣に討たれた。主人がいなくなった甲斐国には徳川家康が入り、武田家の遺臣の多くを召し抱えた。【出典

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