石川県内の「前田」の名字の詳細
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■ 県内24位: 前田(まえだ)

# 石川県内では、県内全域に広く見られ、比較的能登に多く見られる。特に旧中島町(現七尾市)では1.5%をしめる。【出典

# 石川県の前田家: 加賀藩主前田家尾張国荒子(愛知県名古屋市)の出身。【家紋:加賀梅鉢】明治維新後には侯爵

・ 加賀藩主。菅原姓。尾張国海東郡の荒子城(名古屋市中川区荒子町)城主だった利昌(春)以前はよくわからない。利昌の四男の利家が織田信長に仕えて頭角を著し、信長の命で兄の利久に代わって前田家を継いだ。本能寺の変後は柴田勝家の与力大名だったが、賤ヶ岳合戦後に豊臣秀吉に属して、加賀100万石を与えられて金沢城主となった。1598年に五大老となった。子の利長は関ヶ原の合戦では東軍に属し、119万石余りの大身となった。三代利常は二男の利次に越中富山10万石、三男利治に加賀大聖寺7万石を分知し、四代光高が継承したのは102万5000石余り。
1884年に侯爵。【出典

# 石川県の前田家: 大聖寺藩(石川県加賀市)藩主。加賀藩の三代利常の三男の利治が1639年に7万石を分知されて、大聖寺藩を立藩した。1821年に九代利之のときに10万石となった。利之は九谷焼を復興したことでも知られる。1855年に、十二代利義の世子の利行と利義があいついで死去。そのため、利義の死を隠したまま将軍の拝謁無しで十三代目を相続させ、直ちに弟の利かが十四代目を継いだ。明治時代には子爵。【出典

# 石川県の前田家: 小松城代の前田家。前田利長の弟の利政が祖。子の直之は加賀藩の家老となり、加賀藩老臣八家の一つとなった。代々、1万1000石を領し、戊辰戦争の際に直信は藩兵を率いて参戦した。明治時代には男爵。【出典

# 石川県の前田家: 加賀藩家老の前田対馬守家。前田利家の娘を妻とした前田長種が小松城代などをつとめて2万石を領したのがが祖。以後、加賀藩老臣八家の一つとなり、代々家老を務めた。明治時代には孝は男爵となり尾山神社の宮司を務めた。【出典】 

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