埼玉県の戦国史
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu  
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 埼玉県の戦国史

# 室町時代の中期、関東管領をつとめた扇谷・山内の両上杉氏は古河(茨城県古河市)を本拠にした古河公方と対立した。30年近くにわたって抗争を続け、これを享徳の乱という。このときに活躍したのが、扇谷上杉氏家宰の大田道灌で、岩村城と江戸城を築いた。文明8年(1476年)に山内上杉氏の家臣の長尾景春が鉢形城で謀反し、これを古河公方の足利成氏が支援すると、太田道灌が奔走して乱を治めた。この活躍で太田道灌の名声は関東一円に広がったが、山内上杉氏の顕定が扇谷上杉氏の定正に讒言し、これを信じた定正は太田道灌を謀殺した。これをきっかけに、両上杉氏は対立し、太田一族など多くの家臣が扇谷上杉氏から離反して山内上杉氏に転じた。すると、定正は古河公方を継いでいた足利政氏長尾景春と結んで対抗した。しかし、扇谷上杉氏は次第に勢力を失った。【出典

# 両上杉氏が対立している間に、相模国北条氏が北に勢力を拡大し、大永4年(1524年)には江戸城を攻略して扇谷上杉氏を追い、翌年には岩村城も落とした。さらに天文6年(1537年)には河越城も奪った。天文14年に扇谷上杉氏は、関東管領上杉憲政古河公方の足利晴氏の支援を得て、8万あまりの軍勢で河越城を包囲した。半年間の籠城の後、北条氏康が救援にかけつけると夜陰にまぎれて包囲郡を奇襲、朝定は討ち死にして扇谷上杉氏は滅亡した。これを河越夜戦という。上杉憲政上野国に逃れたが、北条氏の圧迫を受けてさらに越後国に転じ、長尾景虎に山内上杉氏の名跡と関東管領を譲り渡した。足利晴氏も古河に敗走、北条氏康の妹の芳春院が産んだ義氏に家督を譲り渡し、武蔵国は北条氏の勢力下となっていった。【出典

# 天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原攻めで、前田利家上杉景勝らが上野国から武蔵国にはいるとまたたくまに諸城を落とし、小田原城も開城して、その後関東地方には徳川家康が入った。【出典

戦国時代とは

統計表示