栃木県の戦国史
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■ 栃木県の戦国史

# 室町時代の栃木県は、宇都宮氏が勢力を持ち、また南部には小山氏佐野氏などが割拠し、那須地方には那須氏が勢力を持っていた。宇都宮氏の配下には、紀党と呼ばれた益子氏と、清党と呼ばれた芳賀氏があったが、芳賀氏が宇都宮氏から何度か養子を迎えたことで、その一門となり、宇都宮氏の一族の塩谷氏や武茂氏と争うようになった。寛正4年(1463年)に芳賀成高の子の正綱が宇都宮氏を継いだことで、芳賀氏は宇都宮氏と並ぶようになり、永正9年(1512年)に宇都宮成綱が芳賀高勝を討ち内訌状態になった。これに加えて、古河公方の内紛も発生し、天文20年(1551年)に宇都宮広綱と芳賀高定が、芳賀氏の嫡流の高照を討ったことで終息した。【出典

# 那須氏は下那須家と上那須家に分裂し、下那須家は古河公方と、また上那須家は室町幕府と結んで争い、永正11年(1514年)に上諏訪家が内紛で滅亡したことにより、下那須家の資房が那須氏を統一した。那須資晴は大関氏大田原氏、千本氏などを率いて宇都宮氏と争った。【出典

# その間に、後北条氏が関東地方北部に勢力を拡大し、天文14年(1545年)の河越夜戦で扇谷・山内両上杉氏が敗れると、南部の方から後北条氏の支配下となっていった。しかし、永禄3年(1560年)に長尾景虎(上杉謙信)が後北条氏の追討を目指して関東に出陣し、その後関東の豪族たちは長尾軍のもとに参陣した。以後、下野国の諸将は後北条氏と上杉氏の間で翻弄された。この間、天正4年(1576年)に小山秀綱が後北条氏に敗れて祇園城(栃木県小山市)が落城、大名としては滅亡した。【出典

# 天正18年(1590年)の小田原攻めで勝利した豊臣秀吉は、宇都宮城に進軍。宇都宮氏は所領を安堵されたが、後北条氏方に与していた下野国の諸氏の多くは所領を没収された。【出典

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