「那須」の名字の由来
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■ 那須(なす)

【2021/02/27:改編】

# 578位

# 藤原氏長家流、清和源氏安倍氏などにみられる。

# 代表家紋

# 宮崎県:42位、熊本県:124位、和歌山県:124位、山形県:154位、岡山県:200位、岩手県:244位など。【全国分布

# 下野国那須郡をルーツとする。那須与一の家紋

# 那須与一は長男か?

# 那須から出た名字には「芦野」「伊王野」「千本」「福原」などがある。

# 栃木県の那須家: 藤原北家の出で、下野国那須を本拠とした。鎌倉時代には御家人となり、一族の芦野家福原家などを那須郡に配し那須党を組織した。江戸時代には那須1万4千石。【出典

・ 秀吉の小田原攻めへの参陣で遅れ、烏山城は没収されたが福原1万4千石で残った。

・ 交代寄合。下野の戦国大名の那須氏の子孫。藤原道長の六男の長家の子孫と伝えるが、古代豪族の那須国造の末裔ともいう。資晴は1590年の豊臣秀吉の小田原攻めに際して参陣しなかったことから8万石の所領が没収された。子の資景が秀吉に謁見して福原で5000石を与えられて那須家を再興、関ヶ原の戦い後那須藩1万4000石を立藩した。1642年に二代資重が没後、西尾藩の初代藩主の増山正利の弟の資弥(資祇)が養子となって、5000石の旗本として再興した。資弥の姉のお楽の方は三代将軍家光の側室となって四代将軍家綱を産んだことから、資弥も1664年に5000石を加増されて大名となり、下野烏山藩を立藩した。1684年に家督争いで再び改易、1700年には資徳が召し出されて再興、1708年には交代寄合となった。【出典

# 熊本県の那須家: 人吉藩家老日向の那須氏の一族と言われる。

# 宮崎県の那須家: 日向国臼杵郡椎葉村の旧家。下野国の那須氏の庶流。  

・ 日向国臼杵郡の旧家。下野国の那須氏の庶流で、宗隆の長男の宗治の子孫とも、弟の宗久の子孫とも言う。平家の残党の追討のため日向国椎葉に入った那須大八郎が平家の残党の鶴富姫との間に子をなして、娘であったために子は椎葉に土着したものと伝わる。以後小崎城(宮崎県椎葉村大川内)に拠り、椎葉山一帯を支配した。【出典

# 那須家: 家紋「一文字」

・ 下野国那須郡烏山(栃木県那須郡那須町)をルーツとする。

・ 藤原北家長家流。須藤資隆を祖とする。資隆の子が「那須の与一」で有名な宗隆。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】

# 国衆(国人)

■ 奈須(なす) 

【2020/06/25:新載】

# 宮崎県の名字。日向の那須氏から転字したものか。現在は東臼杵郡門川町や軣預爾紡燭ぁ【出典

# 熊本県。ポツンと一軒家より

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