「薬師寺」の名字の由来 | |
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■ 薬師寺(やくしじ)
【2022/11/19:改編】
# 各地にみられるが、愛媛県の南予地方に多く見られる。
# 下野の薬師寺氏は下野国河内郡薬師寺(栃木県下野市薬師寺)をルーツとし、藤原北家秀郷流の小山氏の庶流。
# 薬師寺(やくしじ): 下野国河内郡の国人。藤原北家秀郷流。寛喜年間に小山長村の子の朝村が薬師寺城(栃木県下野市薬師寺)を築城して薬師寺氏を称した。南北朝時代、公義は高師直の被官になり、上総守護代・武蔵守護代になった。観応の攪乱では足利尊氏・高師直方に与して、その後は下野国で宇都宮公綱に属した。以後、代々宇都宮氏に従い、1597年に勝朝のときに、宇都宮氏と共に没落した。【出典】
# 細川京兆家の重臣。藤原北家秀郷流で、下野国の薬師寺氏の同族。元長は細川勝元に仕え、摂津守護代を務めた。養子の与一は政元に仕えていたが、1504年に細川澄元を擁立しようとして淀城で挙兵、政元や弟の長忠に討たれた。兄に代わって長忠が摂津守護代に就任したが、1507年に長忠は政元を暗殺、その養子の澄之を擁立したが、今度は澄元・細川高国の連合軍に敗れて討ち死にした。【出典】
# 長崎県の薬師寺家: 長崎の町年寄。戦国時代には豊前国の大友氏の家臣。
・ 長崎町(長崎市)の年寄。戦国時代には豊後の大友氏の家臣で、筑前国東郷(福岡県宗像市)にいたが、大友氏の滅亡後には種長は長崎に転じて町人となり、磨屋町の乙名となった。代々鉄砲術を伝えて、久左衛門は島原の乱にも従軍、鍛錬流(自覚流)の開祖でもある。1697年に種政が長崎の町年寄となり、以後代々世襲した。【出典】
# 国衆(国人)
# 「寺」のつく名字。
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