「ひきた」の名字の由来
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■ 疋田(ひきだ)

【2021/11/20:改編】

# 東海地方から近畿地方に多く見られる。

# 山形県の疋田家

# 新潟県の疋田家

# 福井県の疋田家  

# 静岡県の疋田家

# 参考: 疋田(ひきだ)の地名

・ 疋田(ひきだ): 福井県敦賀市疋田。地名の由来は、越前権介に任じられ北陸道七か国押領使・越前国惣追捕使として威勢を振るった鎮守府将軍藤原利仁の孫疋田為頼によると思われる。【出典

・ 疋田(ひきだ): 石川県金沢市疋田。金沢平野の金腐(かなくさり)川下流右岸に位置する。地名は当地に居住した富樫氏の同族匹田氏に由来するといわれ、匹田二郎俊平などの居址があると伝える。【出典

・ 疋田(ひきだ): 奈良県奈良市疋田町。秋篠川支流大池川流域、西の京丘陵に沿って位置する。地名の由来は、常福寺に伝わる文化14年頃の「植村家系図」に「上ノ城跡に村号無之、迅ニ孫兵衛ノ朱印頂戴申サレ、則奈良晒ノ一疋ノ字ヲ以テ村号トス、則改メテ云、和州添下郡疋田ト名ツケテ奈良ヨリ一里西ニ当ル」とある。また湿田が疋田となったともいわれている。【出典

・ 疋田里(ひきだのり): 三重県多気郡多気町三(四)疋田。平安時代から南北朝時代にかけて伊勢国にみられた里名。伊勢国多気郡のうち。相可(おうか)郷に属した。櫛田川中流域右岸の段丘上に位置する。承和2年4月15日の民部省符写に「参疋田里」「肆疋田里」と見え、16条3里と4里を当里名で呼んだ。3里では4・34坪に2町、4里では4・27・34坪に3町の東寺領荘田があり、公田と相博した。3里4坪下国帖田1町と4里の3町は二品秀良親王が成願寺へ施入したものといい(東寺百合文書/平遺138)、東寺との間で相論が起きた。また、16条3里には5・6坪に4反、4里には2・17・19・20・30の坪に6反の近長谷寺の治田と垣内1処があった(近長谷寺資財帳/平遺265)。三疋田里には宗林寺が所在し、他に疋田寺の名も見える(同前)。なお、南北朝期には3里字於曽子に、大神宮法楽寺の戸田2反があった(法楽寺文書紛失記/神宮文庫影写本)。三疋田里は鎌倉期の弘安3年に三疋田村と見え(鏑矢伊勢方記1)、近世の村名へ継承し、四疋田里も同様継承した。【出典

# 「疋(ひき)」の語源

# 「田」のつく名字

■ 匹田(ひきた)

【2021/04/17:改編】

# 大分県、三重県、愛知県、山形県、北海道などに固まってみられ、山形県内ではほとんどが鶴岡市にみられる。

# 秋田県の匹田家: 秋田藩家老。【出典】 

# 「田」のつく名字

■ 引田(ひきだ) 

【2021/12/03:新載】

# 群馬県と茨城県に多く見られる。

# 戦国時代、上野国勢多郡引田郷(前橋市富士見町引田)の国衆に引田氏がいた。【出典

# 群馬県内では、藤岡市や高崎市に多く見られる。【出典

# 「田」のつく名字

■ 疋壇(ひきだ)

【2023/04/25:新載】

# 越前国敦賀郡の疋壇城(福井県敦賀市疋田)城主。越前権介・越前国惣追補使をつとめた藤原為頼(匹田斎藤氏を称す)の末裔という。戦国時代には疋壇城に拠って、朝倉氏に仕えた。元亀元年(1570年)に織田信長に敗れて落城、六代城主の疋壇兵庫頭は自刃した。「疋田」とも書く。【出典

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