「平沢」の名字の由来
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 「は」行の名字
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 平沢(ひらさわ)

【2023/02/25:改編】

# 代表家紋

# 陸奥国の平沢氏は加美郡平沢(宮城県加美郡色麻町)をルーツとする。藤原氏の出。大崎氏を経て、伊達氏に仕えた。【出典

# 武蔵国御嶽城(埼玉県神川町)城主の平沢左衛門尉政実は、足利長尾氏の家臣であったが、北条氏に従い武蔵国御嶽城主に任じられた。永禄11年12月に始まった武田信玄の駿河侵攻により、北条氏と武田氏の同盟が決裂すると、御嶽城は武田・北条両氏の「境目」となった。元亀元年6月に平沢政実は武田軍の攻撃を受けて降伏し、これ以後武田氏に従属した。その際に、「長井」の名字と豊前守の受領を授与され、長井豊前守政実を称した。元亀2年末に、北条氏政は武田信玄との再同盟を締結すると、その「国分(くにわけ)」が問題になった。とりわけ難航したのは、御嶽城主の長井政実の処遇で、長井は武田方であったが、御嶽城は北条氏に返還することになっており、政実の替え地をどうするかで画定が長引いた。ようやく、元亀3年11月に御嶽城の割譲が実現し、政実は上野国三ツ山城を与えられたため、ここに転じた。そして、天正元年11月に武田勝頼から替え地の知行1000貫文を約束された。【出典

# 相模国の平沢氏は大住郡平沢(神奈川県秦野市)をルーツとする。藤原北家秀郷流の波多野氏の一族。【出典

# 信濃国の平沢氏は佐久郡平沢村(長野県南佐久郡南牧村)をルーツとする。戦国時代に、伊那郡の知久氏の家臣に平沢家があり、関係あるか。江戸時代には虎岩村(長野県飯田市)の庄屋に平沢家があった。【出典

# 常陸国の佐竹氏の家臣にも平沢家があった。【出典

# 現在は長野県と新潟県にまとまってみられる。【出典

# 長野県の平沢家

# 「沢」のつく名字

# 「平」のつく名字

都道府県毎の名字の特徴 名字の様々な区分
難読名字 難読地名・珍地名
地名と災害 名字の博物館
名字と地名・都道府県編 民俗学の広場内の検索

■ このサイトで使用している「名字の順位」「全国の概算数」「都道府県毎の順位」などについてはこちらを御覧下さい。詳細】 

統計表示