「三ヶ」の名字の由来 | |
【参考資料・文献】 | 【利用上の注意】 |
名字の由来のTop | 地名の由来のTop |
名字と地名のMenu | 「さ」行の名字 |
■ 三ヶ(さんが)
【2022/12/09:新載】
# 河内国讃良郡の国人。「三箇」とも書いた。藤原北家秀郷流で、佐藤忠信の末裔と伝える。戦国時代、頼照は三箇城(大阪府大東市三箇)に拠り、キリシタン大名として知られた。1563年に三好三人衆に追われて堺に逃れたが、1566年には三箇城に復帰。フロイスらの書簡集によると、頼照は河内キリシタン信徒の保護や慈善事業に奔走し、孤児の父、寡婦の保護者と賞賛される。1573年に若江城主の三好義継が敗死すると織田信長に仕え、1578年に本願寺の一向一揆に敗れて落城した。子の頼連は本能寺の変で明智光秀に属して没落した。のちに、一族は備後国の福山藩士になったが、藩主の水野氏が改易されて浪人したという。【出典】
# 河内国讃良郡の国衆で、「三箇」とも書いた。藤原北家秀郷流で、佐藤忠信の末裔という。戦国時代には頼照は三箇城(大阪府大東市三箇)に拠って、キリシタン大名として知られた。永禄6年(1563年)に、三好三人衆に追われて堺に逃れたが、永禄9年には三箇城に戻った。フロイスらの書簡集では、頼照は河内キリシタン信徒の保護や慈善事業に奔走し、孤児の父、寡婦の保護者と賞賛されている。天正元年(1573年)に若江城主の三好義継が敗死すると、織田信長に仕え、天正5年に本願寺の一向一揆に敗れて落城した。子の頼連は本能寺の変で明智光秀に与して没落した。【出典】
# 「数・数字」のつく名字。
都道府県毎の名字の特徴 | 名字の様々な区分 |
難読名字 | 難読地名・珍地名 |
地名と災害 | 名字の博物館 |
名字と地名・都道府県編 | 民俗学の広場内の検索 |
■ このサイトで使用している「名字の順位」「全国の概算数」「都道府県毎の順位」などについてはこちらを御覧下さい。【詳細】