埼玉県内の諸藩 | |
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# 武蔵国。赤沼陣屋。内藤家。譜代大名。1万石。元禄6年に内藤正勝が立藩。正勝の死後、子の正友が岩村田藩に転封となって廃藩。【出典】
# 武蔵国。石戸陣屋。牧野家。譜代大名。1万1000石。寛永10年に、牧野信成が立藩し、正保元年(1644年)に下総国の関宿に転じて廃藩。【出典】
■ 岩槻藩(いわつきはん): 埼玉県さいたま市
■ 岡部藩(おかべはん): 埼玉県深谷市
■ 川越藩(埼玉県川越市)
■ 騎西藩(きさいはん): 埼玉県加須市騎西
# 「騎西」の地名。
# 武蔵国。騎西城。大久保家。譜代大名。2万石。関ヶ原の合戦の後、大久保忠隣の嫡男の忠常が入封。のちに美濃国の加納へ転封となって廃藩。【出典】
# 武蔵国。久喜陣屋。米津家。譜代大名。1万2000石。貞享元年、米津政武が領地替えで立藩した。のちに、藩庁を出羽国長瀞に移して廃藩。長瀞藩。【出典】
# 武蔵国。小室陣屋。伊奈家。譜代大名。1万3000石。天正18年(1590年)に伊奈忠次が立藩した。三代の忠勝が早世して嗣子なく改易になって廃藩。【出典】
# 武蔵国。高坂陣屋。加賀爪家。譜代大名。1万3000石。掛塚藩主の加賀爪直澄が一時的に武蔵国高坂に藩庁を移して立藩した。のちに、掛塚に戻した。【出典】
# 武蔵国。野本陣屋。渡辺家。譜代大名。1万3500石。寛文元年に、渡辺吉綱が立藩。三代の基綱が和泉大庭寺に藩庁を移して廃藩。【出典】
# 武蔵八幡山藩(むさしはちまんやまはん): 武蔵国。八幡山城。竹谷松平家。譜代大名。1万石。天正18年に立藩。竹谷松平家清が立藩したが、まもなく三河国の吉田に転封となって廃藩。【出典】
# 武蔵国。鳩ヶ谷陣屋。阿部家。譜代大名。1万石。関ヶ原の合戦の後に、阿部政次が立藩した。元和3年に、上総国の大多喜へ転封となって廃藩。【出典】
# 武蔵国。原市陣屋。西尾家。譜代大名。1万2000石。関ヶ原の合戦の後に西尾吉次が立藩した。その後、吉次の子の忠永が上野国の白井に転封となって廃藩。【出典】
# 武蔵国。東方陣屋。戸田(松平)家。親藩。1万石。徳川家の関東入国の際に立藩した。関ヶ原の合戦の後に上野国の白井に転封。【出典】
■ 深谷藩(ふかやはん)
# 武蔵国。深谷城。酒井家。譜代大名。1万石。元和8年に立藩。控間:帝鑑間。格:城主。位階:従四位上。上屋敷:中央区日本橋蛎殻町。元和8年に、川越藩主の酒井忠利の子の忠勝が立藩。寛永4年に忠勝が川越藩主になって立藩。【出典】
# 武蔵国。本庄城。小笠原家。譜代大名。1万石。天正18年(1590年)に立藩。控間:柳間。格:城主。位階:従五位下。豊臣秀吉の小田原攻めの後に、小笠原信嶺が入封して立藩した。慶長17年に、子の信之が下総国の古河に転封となって廃藩。【出典】
■ 松山藩(まつやまはん)
# 武蔵松山藩(むさしまつやまはん): 武蔵国。松山城。桜井松平家。譜代大名。3万石。天正18年に立藩。控間:帝鑑間。格:城主。位階:従五位下。桜井松平家広が立藩。家広の死後、異父弟の忠頼が加増されて遠江国の浜松に転封となって廃藩となった。【出典】
【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。