「米津」の名字の由来
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■ 米津(よねつ、よねづ、よねきづ)

【2021/11/09:改編】

# 愛知県を中心に関東地方南部から四国地方にかけてまとまってみられる。

# 三河国碧海郡米津(愛知県西尾市米津町)をルーツとする。

# 米津家(出羽国長瀞藩
・ 松平清康の時代から松平家に仕え、米津田政(たまさ)が二代将軍秀忠の時代に町奉行(江戸町奉行)を務めた。その嫡男の田盛(たもり)は甲府在番から小姓組番頭、書院番頭、大番頭大坂城番とすすみ1万5千石を与えられた。田盛の嫡男の政武は武蔵国久喜藩1万2千石。五代通政は出羽国長瀞藩1万1千石。幕末には奥州列藩同盟に加わらなかったため鶴岡藩の攻撃を受けて長瀞の陣屋は焼失した。明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 米津家(よねきつけ)
・ 米津田政(たまさ)は、秀忠に属し上田城攻めに活躍し、江戸時代には江戸町奉行。その子の、田盛(たもり)は1666年大阪定番となって、摂津、河内などを中心に一万五千石。武蔵国久喜を経て1798年にでは出羽国長瀞。明治維新後には上総国大網、常陸国竜ヶ崎に移った。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

# 三河国発祥か。清和源氏土岐氏の出を称すが、不詳。米津勝政のときに松平清康に仕えた。政信は家康に仕え、子の康勝の子孫は1070石の旗本。【出典

# 康勝の弟の田政は1604年に町奉行となり、5000石を領した。1684年に政武のときに武蔵国久喜1万2000石で大名となった。以後、各地を転々として、1798年に出羽国長瀞(山形県東根市長瀞)に転じた。明治維新後には常陸国竜ケ崎(茨城県竜ケ崎市)に転じた。明治時代には子爵。正しくは「よねきつ」と読む。【出典

# 現在も東海地方に多く見られ、特に愛知県の岡崎市から西尾市にかけてまとまってみられる。【出典

# 山形県の米津(よねきつ)家

# 愛知県西尾市米津町仲之畑1番地1に名鉄西尾線の米津駅(よねづえき)がある。

# 米津(よねづ): 愛知県西尾市米津町
・  矢作(やはぎ)川下流右岸に位置する。地名の由来は、地形的に見て入江の港、江の津が転訛したとみられる。また米を津出した浦であったため、「こめつ」が「よねつ」となったとも伝える。中世には米津氏の米津城があったが、位置は定かでない。【出典】 

# 江戸時代の初めの町奉行の米津勘兵衛田政は「よねづ」読み。【江戸の名奉行 43人の実録列伝 丹野顯 文春文庫】
※ どうなんでしょう?本当に「よねづ」読み?間違いだと思うよ。

# 米津田政は徳川秀忠に属し、上田城攻めで活躍し、江戸町奉行になった。田政の子の田盛(たもり)は1666年に大坂城番となり摂津・河内などで1万5千石。その後、武蔵国久喜から、1798年に出羽国長瀞。明治維新後には、上総国大網から常陸国竜ケ崎へ。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

# 米津(よねつ、よねづ、よねきつ): 静岡県浜松市南区米津町(よねづちょう)。愛知県西尾市米津町(よねづちょう)。徳島県徳島市川内町米津(よねつ)。愛媛県大洲市米津(よねづ)。

・ 米の集散地、またその荷積み港。西尾市の米津は米の他に材木も積み出したので、「ヨネキツ」とも呼んだ。【出典

# 「米」のつく名字

# 「津」のつく名字

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