長崎県の戦国史
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■ 長崎県の戦国史

# 鎌倉時代に松浦地方に誕生した嵯峨源氏松浦党は、室町時代になると本来は嵯峨源氏の出ではない在地武士層も吸収して大きな武士集団になり、上松浦党、下松浦党、宇久党の三派に分かれた。また、松浦党は次第に倭寇として高麗や元の湊を襲うようになった。松浦党は壱岐国にも進出したが、対馬国はひきつづき宗氏が一族の仁位氏と争いながらも島主として支配した。【出典

# 戦国時代には、各地で戦いが生じ、そのなかから島原半島の有馬氏が台頭してきた。有馬賢純は将軍の足利義晴から「晴純」の名を賜って、さらに二男の純忠を大村純前の養子として送り込んで家督を継がせ、勢力を拡大した。大村氏を継げなかった純前の実子の貴明は後藤氏の養子になって大村純忠を攻め大村氏は分裂したが、有馬晴純の支援を受けた大村純忠が勝ち、有馬晴純は高来・藤津・杵島の三郡を支配して全盛期を迎えた。しかし、晴純が死去すると急速に台頭してきた佐賀郡の龍造寺氏に圧迫されて、天正4年(1576年)には藤津郡で敗北して藤津・杵島両郡を失った。【出典

# 一方、松浦党も内部紛争を繰り返して、その中から下松浦党の嫡流の相神浦松松浦氏、上松浦党の峯氏の末裔で朝鮮・中国との貿易で富を蓄えた平戸松浦氏、宇久党の宇久氏が台頭した。永禄年間には平戸家の隆信が相神浦家を降して松浦党を統一し、元亀2年(1571年)には壱岐国を支配していた波多氏を降して壱岐国も勢力下においた。【出典

# 宇久氏は南北朝時代末期には本拠地である宇久島を離れて福江島に転じ、中通島などの周辺領主を家臣団として組み込んで五島列島南部を領する戦国大名に成長した。対馬国では戦国時代宗氏が島主として支配した。【出典

# 天正15年(1587年)に島津氏を降した豊臣秀吉は新たに九州の諸大名を再配置した。この九州国分の際、県内の武士の多くは早くから従ったため、諫早の西郷氏を除いてはほぼ所領を安堵された。【出典】 

戦国時代とは

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