福岡県内の「少弐」の名字の詳細
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■ 少弐(しょうに): 福岡県の少弐家

# 福岡県の少弐家: 藤原北家秀郷流。武藤資頼が太宰少弐(大宰府の次官)となって筑前国下向した。【出典

・ 筑前国の戦国大名藤原北家秀郷流で武藤頼平の子の資頼が祖。資頼は源平の合戦では平家方に属して三浦義澄に捕らわれたが、故実にあかるいことから許され、1189年に御家人に取り立てられた。そして、建久年間に太宰少弐に補せされて九州に下向し、以後代々世襲して少弐氏を称した。さらに、筑前・豊前など数カ国の守護を兼任し、九州北部に大きな勢力をもった。貞経は筑前・豊前・肥前の三カ国の守護を務めていたが、1333年に鎮西探題の赤橋英時を滅ぼし、建武新政政権下でも筑前・豊前両国の守護をつとめた。1336年に足利尊氏が建武政権に叛いて九州に逃れてきた際にはこれに与し、政権方の菊池武敏に敗れて自害した。以後、北朝に属したものの、足利政権が九州探題を置いたことからこれと対立、次第に勢力を失った。さらに、1375年に冬輔が九州探題今川了俊に謀殺されたことから、跡を継いだ弟の頼澄は南朝方に転じた。南北朝統一後、太宰府を失い遺児は対馬に逃れた。1383年に政資が肥前で挙兵、大友氏の援助を得て太宰府を奪回した。以後、大内氏との間で一進一退を繰り返したが、1397年に政資・高経父子が戦死すると、政資の末子の資元が拠点を肥前国に移し、龍造寺氏の支援を得て少弐氏を再興した。しかし、龍造寺氏にも叛かれ、1559年に冬尚が龍造寺隆信に敗れて滅亡した。【出典】  

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