静岡県内の「富士」の名字の詳細
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■ 富士(ふじ)

# 静岡県の富士家: 富士本宮浅間神社の大宮司家。孝昭天皇末裔という。南北朝時代には南朝に属し、今川家の家臣となった。【出典】 

・ 富士山本宮浅間神社の大宮司家。孝昭天皇末裔の豊麿が祖と伝える。代々、大宮浅間神社の大宮司をつとめる一方、一族は武士化して富士郡郡司や駿河国目代などを務めた。南北朝時代は南朝に属し、駿河国有度郡下島郷の地頭となった。戦国時代今川氏に属して大宮城(富士宮市)に拠った。1568年の武田信玄の駿河侵攻では信忠・新通父子は大宮城に籠城したが、翌1569年に開城して北条氏の下に逃れ、1571年に武田氏の家臣に転じた。信通は1577年に大宮司職に復帰、以後武田氏の滅亡後も代々大宮司を務めた。【出典

# 駿河国の富士信忠・信通父子は、富士大宮浅間神社の大宮司で、富士大宮城代を努めた。永禄11年12月に、武田氏の駿河侵攻が始まると、富士父子は大宮城に籠城し、多くの今川氏方武田氏に靡いたのに対して武田軍への抵抗を続けた。しかし、武田方の穴山信君らの攻撃により、永禄12年7月に大宮城を明け渡し、北条氏方の蒲原城に退去した。しかし、蒲原城も武田軍の攻撃により、永禄12年12月に落城した。富士父子は城を脱出したらしく、駿河国の北条領に退去し大宮城奪回を目指すが果たせず、困窮したこともあって、元亀2年10月に、遂に今川氏真に暇を乞い、北条方からも離れ、元亀3年4月までは武田氏に従った。富士父子の富士大宮城と所領は武田方に没収されており、武田信玄から駿府周辺で知行を与えられ軍役奉公を命じられた。信忠・信通父子は、富士大宮の浅間神社の大宮司に再任され、祭祀の執行を実施したが、地域の領主としての性格は失われた。誅殺は免れたものの、本領は没収され、国衆の実態を失い、別に知行を与えられ、軍役奉公などを担う形で存続した。【出典

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