岐阜県内の「斎藤」の名字の詳細 | |
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■ 斎藤(さいとう): 岐阜県の斎藤家
# 岐阜県の斎藤家: 藤原北家利仁流。斎藤親頼が美濃国の目代になり美濃に勢力をはった。室町時代には土岐氏のもとで守護代を務めた。【出典】
# 美濃国の戦国大名。越前国の河合斎藤氏の末裔という斎藤親頼が美濃国の目代となって土着したのが祖。代々稲葉山城(岐阜県岐阜市)に拠って土岐氏の守護代をつとめた。明応3年(1494年)、斎藤利国は土岐氏の家督争いに乗じて美濃国の実権を握ったが、明応5年に六角氏を攻めた際に、利国と嫡子の利親がともに討ち死に、以後は家宰の長井氏に実権を握られた。さらに天文7年(1538年)に長井氏を継いでいた西村新九郎が斎藤氏の名跡を継いで斎藤道三となって、天文11年には土岐氏を追放して美濃国を支配下においた。なお、斎藤道三については、妙覚寺の僧侶であった新左衛門尉が、西村氏を称して美濃国に転じて長井弥二郎に仕え、その後長井氏を称するようになったもので、その子の左近大夫(道三)の代に守護代の斎藤氏の名字を名乗ったとされる。従って、かつては道三の事績とみなされていたのは親子二代にわたるものとみられる。弘治2年(1556年)に、道三の長男の義龍は父の道三を討って美濃国を手中にした。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が死去して庶子の斎藤龍興が継ぐと、家臣の離反が相次いで、永禄10年に織田信長に敗れて美濃国を追われて伊勢国の長島に逃れた。その後は朝倉氏を頼って、天正元年(1573年)に朝倉氏とともに滅亡した。【出典】
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