青森県の戦国史
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■ 青森県の戦国史

# 室町時代に青森県西部を支配していた安東(安藤)氏は、次第に南部氏に追われて蝦夷松前に渡った下国安東氏と、出羽湊に退いた湊安東氏に分かれ、青森県域は東部は南部氏、津軽・外浜地域を浪岡氏が支配が支配するようになった。【出典

# 南北朝時代末期に陸奥国の南朝勢に押されて津軽入りした浪岡氏は、伊勢国国司北畠氏の一族として「浪岡御所」と呼ばれ、具永・具統(ともむね)父子は従五位下に叙位されるなど東北地方の武家としては特殊な地位についていた。また、領内に油川湊を開発して物資を集積など全盛期を迎えた。一方、南部氏三戸家が北家・東家・南家などの庶子を出して本家を補佐させる一方、一戸氏、田子氏、毛馬内氏などの一族を領内に配して領国支配を強化した。延徳3年(1491年)には一族の光信を種里(鰺ヶ沢町)に入れて津軽に進出、天文2年(1533年)に、津軽の国人層が叛乱を起こすと光信の子の盛信が石川氏とともにこれを鎮圧して津軽地方を支配した。【出典

# その後、浪岡氏は衰退して、永禄5年(1562年)に具運(顕慶)が一族の北畠具信に殺され、5歳にすぎない顕村が家督を相続したことによって衰退した。【出典

# 永禄11年(1568年)に大浦為則の女婿として家督を継いだ為信は、元亀2年(1571年)に石川城主の石川高信を攻めて自害させ、事実上南部氏から独立したが不詳。【出典

# 天正6年(1578年)に大浦為信が浪岡氏を滅ぼすと、一族や家臣団は出羽国の安東氏のもとに逃れ、安東氏と南部氏が協力して大浦氏と対立した。しかし、豊臣秀吉が関東以西を征服して天下人となったことで、南部・大浦両氏はともに豊臣秀吉に降り、大浦氏は独立した大名と認められて津軽氏改称した。【出典】 

戦国時代とは

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