「北畠」の名字の由来
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■ 北畠(きたばたけ)

【2021/02/03:改編】

# 3220位

# 村上源氏などにみられる。

# 代表家紋

# 青森県と関西地方に多くみられる。

# 村上源氏中院雅家が洛北の北畠に住んで北畠を名乗った。

# 後醍醐天皇に仕えた北畠親房の次男の顕信が陸奥の国司となり、陸奥国津軽郡浪岡(青森県青森市浪岡)に下向して浪岡氏と名乗った。北畠親房の家紋

# 北畠から出た名字に、「大河内」「木造(こづくり)」「田丸」「坂内」「星合(ほしあい)」「岩内」「藤方」「波瀬(はぜ)」などがある。

# 福島県霊山町(現、伊達市)には南北朝時代に北畠顕家の居城があった。というより、足利尊氏に敗れ、多賀城から移ってきたようだが。

# 後醍醐天皇建武の新政後、陸奥守には北畠顕家が出羽守兼秋田城介には葉室光顕がついた。北畠顕家は後醍醐天皇の皇子の義良(のりなが)親王を奉じ、親王には甲斐国南部氏が随行してきた。義良は後の後村上天皇

# 三重県の北畠家: 村上源氏の出。南北朝時代に北畠親房の三男の顕能が伊勢国国司となり勢力をもった。【出典】  

・ 伊勢国の戦国大名。村上源氏の出。中院雅家が洛北の北畠に住んで、北畠氏を称した。本来は中級の公卿だったが、親房は後醍醐天皇に抜擢されて側近となり、建武の新政で活躍。1333年に16歳の長男顕家が陸奥守となり、義良親王を奉じて多賀国府に下向。以後、北畠氏は武家となった。1335年の反旗を翻した足利尊氏追討のために上洛、尊氏を九州に追い落とすと鎮守府将軍となって再び奥州に下向した。1337年に再起した尊氏追討のために再び上洛したが、翌年21歳で討ち死にした。この間に、伊勢国の国司となっていた親房は二男顕信と共に東国に渡り、常陸国小田城を本拠に東国の南朝方の中心になった。しかし、1341年に小田城は落城、逃れた関城も同年に落城した。実質的に伊勢国の国司を務めていた親房の三男の顕能は田丸城に拠っていたが、1342年に高師秋に敗れて落城。以後、多気城(三重県多気郡多気町)に拠って伊勢国の国司を世襲。多芸御所と称して南伊勢を制し、大和国宇陀郡の在地領主とも連携して南朝方として活躍した。南北朝合一後は、伊勢国の国司のまま室町幕府から伊勢半国守護を認められた。以後、大河内氏、木造氏、田丸氏、坂内氏、星合氏、岩内氏、藤方氏、波瀬氏などの庶子家を輩出しながら、戦国大名へと脱皮した。1569年に具教のときに、織田信長が伊勢に侵攻、一族の木造氏が信長に内通したことから、信長の子の後の信雄を養子にすることで降伏した。1570年に信雄は具教の五女と結婚して北畠氏を相続して、事実上北畠氏は滅亡した。さらに、1576年に具教以下一族が信長に殺されて、名実ともに滅亡した。【出典

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