「世田谷代官が見た幕末の江戸」の読書
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★ 世田谷代官が見た幕末の江戸 安藤優一郎 角川SSC新書

■ 彦根藩井伊家の世田谷領は20ヶ村からなり、井伊家が江戸で生活する賄い料として与えられた。そこの代官だったのが大場家

■ 幕末に代官を務めた大場家12代の与一と妻の美佐夫婦の残した日記。

■ 美佐は武蔵国荏原郡中延村(東京都品川区)の豪農の鏑木善兵衛の娘。大場家と鏑木家は、もとから姻戚関係のあった親戚だった。

■ 美佐が嫁いだ3年後の安政7年から、日記を付け始め、明治37年まで続いた。


■ 安政7年元日
・ 元日朝少々曇り、四つ(午前10時)頃より天気。
・ 大根の輪切りと里芋の入った雑煮を神棚に供えた。
・ 代官屋敷のある世田谷村の名主の宗八と同村上町(かみまち)の住人たちが新年の挨拶にやってきた。

■ 安政7年1月2日
・ 明け方少々降り出し、四つ頃より天気。
・ 与一が主君の井伊家の上屋敷に挨拶に行く日。上屋敷は江戸城桜田門近くにあった。当時の主君は大老井伊直弼
・ 与一は午前4時に世田谷を出て、桜田門までは約10キロ。献上品は干鯛。干鯛を運ぶ供の者4人を同道。帰宅は夜の10時。

■ 安政7年1月3日
・ 世田谷領20ヶ村の村役人たちが、新年の挨拶のため、正午ころに代官屋敷にやってきた。大場家では、吸物、酒、肴を出した。

■ 安政7年3月3日
・ この日は桃の節句で、江戸在府の諸大名たちは、午前8時に続々と江戸城に向かった。
・ 午前9時、登城のために桜田門に向かった井伊直弼の行列が襲われた。
・ 雪降り、夕方より止み。
・ 正午ころに、世田谷領太子堂村の弁次郎が江戸から送った使者が、代官屋敷に駆け込んで、井伊直弼の変事を伝えた。
・ 夕方、桃の節句のお祝いのために、上屋敷に出向いた野良田村、下野毛村、小山村の名主3名が江戸から戻り、直弼の訃報をはじめとする詳細を聞いた。直弼の落命を知った与一は、急遽、上屋敷に向かう。同道したのは、世田谷村の名主の宗八、用賀村の名主の麻次郎、そして人足6〜7人。戻って来たのは、翌日の明け方。
・ 幕府の公式記録では、直弼は負傷したが、賊を撃退し上屋敷に戻った。その後2ヶ月療養し、井伊家は閏3月30日に幕府に死亡届けをだした。
※ 公式な記録(正史)が事実を示していない実例ですが、古代よりこういった事は沢山あったのでしょうね。

■ 3月4日 曇り
・ 桜田屋敷から戻った与一のもとには、変事を察して近隣から人が訪ねてきた。領主の急死でお家断絶の危機で、世田谷領の行く末を案じてのことである。

■ 3月5日
・ 与一の供で桜田屋敷に出向いていた、用賀村の名主の麻次郎が訪ねてきた。

■ 3月6日
・ 桜田屋敷から、いそいで人足を派遣するようにとの要請があった。人足の役目は水戸藩との戦争に備えてのことである。

■ 井伊直弼の葬儀の前日の4月9日午前6時、直弼の遺骸が桜田屋敷を出て、正午頃に世田谷領の豪徳寺に到着した。

■ 4月10日
・ 葬儀は風雨のなかで、とりおこなわれた。葬儀は午前中に終わり、井伊家の家臣たちは昼頃には帰ったいった。水戸藩との危機は幕府のとりなしで回避されたようだ。

■ 美佐が嫁いだ大場家が世田谷に土着したのは戦国時代の末期。大場家はもともとは吉良家(忠臣蔵の吉良家とは別流)の家臣で、戦国時代に世田谷に城を構えていた吉良家は、小田原の北条氏に仕えた。北条氏が滅亡すると、世田谷で帰農した。世田谷の地が井伊直孝に与えられると、大場家は代官に取り立てられて世襲した。

■ 大場家は代官として35石を賜った。

■ 寛政7年(1795年)、大場家は供人足42人を供出するように命じられた。2月28日の藩主の外出の供。荷物搬送用の駕籠人足。3月23日には、姫君の寺院への参拝のために、84人の農民が動員された。動員された領民は年間で、約6〜7千人。藩邸に泊まり込みの日もあったが、その待遇は劣悪で、ゴザ一枚を支給されただけで、夜通し風が吹きこんで、体調を崩す人も多かった。

■ 幕末に、彦根藩は幕末に横須賀に陣屋を置いて、藩兵2000人をおいて海防の任に当たった。陣屋への物資輸送などのためにも世田谷領の領民が動員された。

■ 和宮の行列の際には、世田谷領から500人が板橋宿まで助郷に駆り出された。

■ 18世紀、仙台藩では50両で帯刀、100両で苗字を許された。

■ 戊辰戦争の際に、新政府側についた彦根藩の世田谷領には、同じ新政府軍の岡山藩が駐屯した。

■ 廃藩置県後、彦根藩の世田谷領は、一時彦根県に編入、その後長浜県がてきた際に、彦根県世田谷領20ヶ村のうち、荏原郡12ヶ村を東京府、多摩郡8ヶ村を神奈川県に編入させた。

■ 大場与一の死後、あとをついだ養子の大場信愛(美佐の弟)は、新世田谷村の村長を経て、東京府会議員。 

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