「後閑」の名字の由来
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■ 後閑(ごかん)

【2023/05/18:改編】

# 群馬県の名字で、全国の7割は群馬県に見られる。中世、碓井郡の国衆に後閑氏があり、清和源氏岩松氏末裔という。永禄3年(1560年)に、丹生城(群馬県富岡市)の城主の新田景純の子の信純が武田信玄から後閑城(群馬県安中市)を与えられ後閑氏を称した。現在は高崎市にまとまって見られる他、前橋市や伊勢崎市にも多い。【出典

# 群馬県の後閑家: 上野国碓井郡後閑(群馬県安中市)をルーツとし、清和源氏岩松氏の出。【出典

# 群馬県の名字。上野国碓氷郡後閑(群馬県安中市)をルーツとする。清和源氏岩松氏の出。1560年に景純が後閑城に拠り、子の信純は武田信玄に仕えて後閑氏を称した。現在は群馬郡榛名町(現高崎市)で上位10位に入る。【出典

# 上野国碓井郡の国衆清和源氏岩松氏末裔といい、永禄3年(1560年)に丹生城(群馬県富岡市)城主の新田景純の子の信純が武田信玄から後閑城(群馬県安中市)を与えられて後閑氏を称した。天正10年(1582年)の武田氏の滅亡後、長男の刑部少輔・二男の宮内大輔の兄弟は北条氏に仕えた。天正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原攻めで滅亡した。【出典

# 「後閑」の地名

# 上野国の後閑(上条・じょうじょう)氏の後閑信純は、上野国甘楽郡丹生郷(群馬県富岡市)を本領とする新田岩松一族で、武田氏からも「新田殿」と呼ばれていた。永禄5年頃に武田氏に従ったが、その本領は小幡憲重・信真父子に奪われ、武田信玄はその還付を実現できなかった。その経緯は定かではないが、後閑氏の帰属が遅れたのが背景にあったものと思われる。信純は、甲府に在府し、武田氏より一族の上条氏の名跡を与えられるとともに、信濃国で知行を賜った。上条宮内少輔を称した信純は、永禄10年6月、武田氏から上野国後閑郷を与えられ、1064貫文を知行する先方衆として活躍した。【出典

# 「後」のつく名字

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