善光寺の由来
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■ 善光寺の由来

前略
物部尾興が難波の堀江(運河)に新仏を捨てた
信濃国本田善光がこの堀江を通りかかると、どこからか「善光、善光」と呼びかける声が聞こえた。すると、水の中から姿をあらわした阿弥陀如来様が、「そなたは月蓋、聖明王の生まれ変わりで有り、過去世(かこぜ)に我と共にあった者だ。我を信濃に連れて行くように」とおっしゃったという。そこで、善光は阿弥陀如来を背負って信濃に戻った。
中略
時の皇極天皇はこの仏像の人気を知り、阿弥陀如来様のための伽藍造成を命じた。そしてできたのが善光を開祖とする善光寺。

・ 仏像を捨てた堀江は大阪市藤井寺小山と比定されている。ここは河内国志紀郡長野郷と呼ばれており、「長野」の地名もここに由来すると言われる。

・ 善光寺の阿弥陀如来は百済から伝えられた最古の仏像。

・ 本田善光と息子の善佐は信濃の国司

・ 6世紀に長野氏なる一族が河内から信濃に移り住んだ。長野氏は渡来人で高句麗・百済系。

・ 善光寺は百済寺ともいわれる。

# 流浪の旅のご本尊
・ 善光寺のご本尊は、武田信玄が川中島の戦いによる消失を懸念し甲府に移した。上杉謙信直江津に移したという説もある。
武田家が滅亡後、織田信忠が岐阜に移した。
・ 信忠の死後は信勝が清洲に移した。
徳川家康が浜松に移し、その後甲府に戻した。
・ 京都の方広寺の大仏が地震で倒壊したので、甲府から京に秀吉が移したが、秀吉が重病となり「本尊が枕元にたって、信濃の地に戻りたい」といったので、信州の善光寺に戻した。

# 宣化天皇3年(538年)、百済の聖明王から日本最古の仏像の阿弥陀如来が贈られ、同時に仏教が伝搬した。その後仏教受容派の蘇我氏と、反対派の物部氏中臣氏が対立。時の欽明天皇は受容の判断を棚上げにして、蘇我氏に仏像を与えて祀らせた。しかし、その後日本国内では疫病が蔓延し、多数の死者がでた。そこで排仏派の物部氏が、「神の怒りをかった」と天皇に奏上し、天皇はその願いを聞いて、物部氏が蘇我氏から仏像を取り上げて、難波の堀江に捨てた。しかし、その後、蘇我氏が物部氏を倒し、受容派の聖徳太子が政治の中心となると風向きがかわり、仏教が広く広まった。【「街道」で読み解く日本史の謎 安藤優一郎 PHP文庫】

# 善光寺地震

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