善光寺地震
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■ 善光寺地震

・ 弘化4年(1847年)3月24日22時。長野県上水内郡信濃町を震源とするM7.4の地震。最大震度7。死者約8600人。死者の多くは土砂崩れによる生き埋め。

・ 飯山藩本多家(2万石)の領内でも善光寺地震による被害は大きく、農村部では1100人が死亡。飯山城下でも300人の死者を数える。

・ 中央気象台松代地震観測所。松代藩佐久間象山は磁石を利用した地震予知器を作成。この地には一時、皇居の移転も計画された。

# 善光寺地震

・ 弘化4年(1847年)3月24日。当日は7年に一回の御本尊の御開帳ということで賑わっていた。善光寺平を震源とする、推定M7.4の地震。

・ 善光寺の本堂は被害は受けたが焼失は免れた。しかし、大本願、仁王門などの南側の建物は全焼。善光寺八町の2443軒のうち焼失が2144軒、倒壊が155軒。善光寺の周辺だけで、死者3000人以上。

・ 死者: 善光寺町2486人、松代藩2717人、飯山藩1515人、松本藩67人、須坂藩17人、陣屋中野602人、上田藩1177人、高田藩5人。

・ 松代藩では犀川がせき止められ、大洪水の危険が。当時の松代藩主の真田幸貫は、松平定信の次男で57才。幸貫は、避難していた農民を呼び寄せて、被害の拡大を阻止するために土木事業に取りかかった。しかし、甲斐なく、せき止め湖が決壊して、領内に水が溢れた。しかし、早めの避難勧告のために、死者は100人以下だった。

【今こそ知っておきたい「災害の日本史」 白鳳地震から東日本大震災まで 岳真也 PHP文庫】 

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