島根県内の「益田」の名字の詳細 | |
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■ 益田(ますだ): 島根県の益田家
# 島根県の益田家: 藤原北家の出で、兼高が平安時代の末期に押領使となり石見国に下向した。益田家は戦国時代には毛利家に従い、江戸時代には長州藩の家老。【出典】
# 石見国の戦国大名。藤原北家の出と言うが不詳。永久年間に国兼が石見国の国司として下向し、御神本(島根県浜田市)に土着して、御神本氏を称したのが祖。源平の合戦では、兼高は源氏方に属し、元暦元年(1184年)に石見国の押領使に任ぜられて美濃郡益田荘(益田市)に転じて益田氏を称した。建久4年(1193年)には、七尾城を築き、以後は益田荘を中心に、石見国に大きな勢力を持ち、三隅氏、福屋氏、周布氏、丸毛氏など多くの庶子家を出した。室町時代には、守護の大内氏に従って、応仁の乱でも貞兼は大内氏に従って西軍に属して上洛し、摂津国に転戦した。また、大内文化を益田に広め、雪舟をはじめ多くの文人が益田を訪れた。天文20年(1551年)に陶晴賢が主君の大内義隆を討つと、陶氏と縁戚関係にあった益田氏は陶氏に与した。しかし、弘治元年(1555年)に陶晴賢が厳島で毛利元就に敗れて自刃し、弘治3年には陶氏に擁立された大内義長も毛利元就に敗れて自刃したため、藤廉は姻戚関係にある吉川元春の斡旋で、毛利元就に仕えた。江戸時代には、長州藩の家老を務めた。【出典】
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