和歌山県の戦国史
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■ 和歌山県の戦国史

# 紀伊国は、河内国を本拠とした畠山氏守護を務めた。畠山氏は管領をも務めたため、紀伊国は守護代などが統治していた。しかし、明応2年(1493年)に畠山政長が政権を奪取した細川勝元に敗れて自刃、子の尚順(尚慶)が紀伊国に逃れてきたことで、紀伊国は畠山氏が直接支配することになり、戦国時代に突入した。また、この頃から畠山氏の被官であった湯川氏の勢力が強くなり、次第に畠山氏をも凌駕していくようになる。そして、元亀4年(1573年)に守護の畠山秋高が遊佐信教の謀反で自刃、管領家としての畠山氏は滅亡した。【出典

# 紀伊国那賀郡の根来寺は室町時代中期以降、泉南や紀北の国人層が山内に次々と子院を建立したことで大きく発展、いち早く鉄砲を取り入れたことで、鉄砲集団の根来衆として知られるようになった。同じに鉄砲衆として活躍したのが雑賀衆である。雑賀荘(和歌山市)を中心に紀ノ川流域に広がった雑賀衆は一族をあげて本願寺に帰依して、一向一揆の勢力として活躍した。【出典

# 長く続いた織田信長と本願寺の対立は紀伊国にも及んで、湯川氏と雑賀衆は本願寺に与する一方、根来衆は織田信長方になって、天正4年(1576年)の戦いでは雑賀衆が信長を狙撃するなどの活躍をみせた。しかし、翌年、雑賀衆の一部が信長に内通したのを機に信長が紀伊国に攻め込んでくると、その圧倒的な武力の前に降伏し、今度は信長の後ろ盾を得て、土橋氏を降した。ところが、本能寺の変で、信長が討たれると雑賀衆を率いた鈴木孫一は失踪し、土橋氏が復権した。その後、湯川氏や根来衆、雑賀衆は徳川家康と結んで豊臣秀吉と対立した。天正13年(1585年)に豊臣秀吉が紀伊国に出陣、根来寺を焼くと雑賀衆は分裂して自滅、豊臣秀長が逃亡した湯川直春を討って紀伊国を支配した。南紀では山本氏と堀内氏が力を持っていたが、豊臣秀吉の紀州入りの際に山本氏は抵抗して滅亡した。【出典

戦国時代とは

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