静岡県内の「小長谷・小長井」の名字の詳細
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■ 小長谷(こながや)、小長井(こながい)

# 県内ランクは、小長谷は257位、小長井は282位。小長谷の名字は全国的にも少ない。【出典

# 武烈天皇の頃に、諸国に御子代部(みこしろべ)として小長谷部(おはせべ)が設置され、これを支配したのが、大和国から起こり古代各地の国造となった多臣族の小長谷直(あたえ)である。天平年間、駿河国に小長谷部善麻呂、小長谷部足国がいた。寛政譜によると、吉良左馬四郎義継の後裔の久清は三河国長谷郷に住んで、小長谷五郎左衛門を称し、のちに大長谷と小長谷の二家に分かれたという。久清は今川了俊に属し、駿河国志太郡に移住してその地を小長井(元川根町)と称した。四代孫の長門守道友は当初は今川氏真に、のちに武田信玄に仕え、武田家の滅亡の時に、小長井城で討ち死にした。道友の一族は、のちに徳川家康に仕えた加兵衛晴次や弥右衛門時重などがいたが、一族が離散したので帰農した者も多く、小長井に住んだ小長谷氏や、上小田村(焼津市)に住んで、代々三郎兵衛を名乗って庄屋をつとめた小長谷氏や、上小田村(焼津市)に住んで代々三郎兵衛を名乗って庄屋をつとめた小長谷氏はこの後裔と言う。【出典

# 清水市(現静岡市)袖師の「小長井氏家譜」によると、今川氏に属した小長井(谷)道友の子の佐内吉政、八左衛門吉次の兄弟は武田信玄に降り、朝比奈信置に属して駿河持舟城(静岡市)を守ったが、1582年に徳川家康の攻撃で落城した為、兄の吉政は袖師横砂(清水市・現静岡市)、弟の吉次は清見関(清水市)に隠棲し、寛政年間に横砂村の陣屋役人の小長井氏はその子孫という。「駿河志料」ではだいぶ違い、駿河国志太郡上藤川(本川根町)の小長谷(井)氏は清和源氏流山城守清房を小長谷氏の祖とし、その子の土岐和泉守清則が駿河守になって河内国から駿河国に来住し、一説では七代孫の伊豆守則久の子、長門守則詮が1293年に、小長井城を築き、川根徳山から小長井城に移住して名字を小長井(谷)と改姓したという。戦国時代に、加賀守(長門守)道友は小長井城主となり、加兵衛清次は徳川家康に仕えて川根地方の代官となり、その子の晴之は幕臣の小長谷氏の祖となった。別流の子孫は忠左衛門、忠兵衛を称し、この地の里長となったという。元亀年間に、武田氏に属し、後に徳川家康に仕え、駿河国志太郡岡部に土着したという小長井(谷)山城守定近は則詮の九代の孫といい、その子の政房は徳川家康に降り、四子のうち二子は徳川家に仕え、二子は民間に隠れ、その一人は小長井弥左衛門則房を称し岡部西山に住んだという。駿河国志太郡大富村(焼津市)の小長谷氏の先祖は、道友の子の三郎兵衛といい、三郎兵衛新田を開発したという。【出典】 

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