静岡県内の「秋山」の名字の詳細
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■ 秋山(あきやま)

# 静岡県内では、東部にいくほど多く見られる。【出典

# 秋山氏は清和源氏流で、源義家の弟の義光の玄孫の光朝が源頼朝に仕え、甲斐国巨摩郡秋山村に住んで秋山氏を称したのが祖。葉梨郷花倉村(藤枝市)の秋山氏は暦応年間の頃から続き、慶長年間の頃の五郎右衛門より代々里長と八幡宮の神主を兼務し、一族には今川家の家臣の秋山主水助、定右衛門、重郎左衛門などがいる。富士郡重須村(富士宮市)本門寺を1347年に造営した時の大施主に秋山式部大夫源宗信があり、大淵村(富士宮市)の秋山氏の祖は、武田氏の落人で、天正年間のころに来住し、この地を開発した。安倍山中(静岡市)の金堀り一族の秋山氏も武田氏の末裔で、今川氏の栄える以前に甲斐国から移住したと伝えられ、名主をつとめた。島田の秋山氏は始祖の光朝から十代目の和時の子の太郎右衛門時長の子孫で、祖の時長は三歳のときに孤児になり、島田生まれの外祖父の関戸播磨守に養育されたが、武田氏に報恩するため成人してからは武田信玄に仕えた。その子の、長久は武田氏の滅亡後、浪人となって北条氏に仕えたが、1590年に北条氏が滅亡したので父祖縁故の島田に帰住したという。長久の子の和宜は初代の島田代官の長谷川長盛の娘を妻とし、その子の長和は島田で問屋をつとめ、時長から代々、太郎右衛門を称した。【出典

# 伊豆の秋山氏は、甲斐国の秋山氏の同族といい、室町時代の末期に堀越公方の足利政知に仕えた秋山新蔵人は忠功の志であったが、北条早雲が政知の子の茶々丸を滅ぼす直前、奸臣の讒言の為に討たれた。【出典

# 田方郡安久村(三島市)の秋山氏は、始祖の光朝の後裔の秋山伯耆守信友の嗣子となった金丸筑前守虎義の子、与兵衛尉近久を初代とする。【出典】 

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