静岡県内の「土屋」の名字の詳細
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■ 県内19位: 土屋(つちや)

# 静岡県内では、東部にまとまってみられ、伊豆では3位、中でも下田市、河津町、大仁町では1〜2位。【出典

# 相模国大住郡土屋郷発祥は桓武平氏流で、源頼朝御家人の中村荘司宗平の子の宗遠が土屋三郎を称したのが祖で、子孫は執権北条氏に属し、のちに足利幕府に仕えた。宗遠の十三代後裔の土屋平三郎氏遠は甲斐国の武田氏に属し、氏遠の五代孫の伝助昌遠は武田信虎に仕え、後に先祖の菩提寺である伊豆国大平郷(修善寺町)の真光院に隠居しこの地で没した。昌遠の子の円都(えんいち)は失明したため、母方の井伊谷(引佐郡)の菅沼忠久の許にあって今川氏真に仕え、北条氏政に属したが、北条氏の滅亡後に徳川家康に仕えて惣検校になった。昌遠の跡目は清和源氏流の足利泰氏の六男の一色公深からでた金丸筑前守虎義の次男の平八郎昌次が継いだ。昌次の弟の惣蔵昌恒は武田信玄から土屋姓を賜った岡部貞綱の養子になって土屋姓を継いで、天正10年に天目山で主君の武田勝頼に殉じ、その子の平八郎忠直は家臣に守られて興津清見寺に隠れ住んでいたが、徳川家康に召し出されて、慶長七年に上総国久留里で2万石を領した。忠直の子の数直、その子の相模守政直は天和2年から貞享元年まで田中城主となった。【出典

# 相模国の北条水軍の土屋左衛門太郎や隼人佐は、伊豆重須(沼津市)に住んで、子孫は大庄屋を務めた。伊豆には土屋の名字が多く見られ、久安年間に多々度浜(下田市)に押し寄せた伊豆八丈島の海賊を追い払ったという伊豆の緒豪の中に土屋氏が見え、応永年間賀茂郡稲梓郷内(下田市)を領した土屋近江五郎入道がいた。【出典

# 茅原野村(下田市)の土屋氏の先祖は、甲斐国の武田氏の滅亡後、この地に隠れ住んだ武田家の遺臣の土屋外記、勝長、玄蕃といい、玄蕃の子孫はこの地の名主を務めた。【出典】 

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