岐阜県の戦国史
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu  
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 岐阜県の戦国史

# 美濃国は代々、土岐氏守護を務め、応仁の乱では土岐成頼が西軍に与して、美濃国内は守護代の斎藤妙椿が支配していた。応仁の乱ののちには、成頼が名目上は西軍の総帥であった足利義視父子を連れて帰国、義視は11年間美濃国に住んだ。その後、成頼が四男の元頼を跡継ぎにしようとして、小守護代の石丸利光と連携、一方成頼の嫡男の政房は斎藤妙椿の養子利国(妙純)と結んで対立した。明応4年(1495年)に石丸軍と斎藤軍が戦って斎藤氏方が勝利し、土岐元頼も自刃した。これを船田合戦という。これを機に、斎藤利国は美濃国の実権を握った。しかし、翌年に六角氏を攻めた際に利国と嫡子の利親がともに討ち死にして、斎藤氏の家宰であった長井氏が実権を握った。【出典

# 飛騨国では建武の新政の際に国司となって下向した姉小路家綱がそのまま土着した。室町時代には大名の飛騨姉小路氏になって、小島城に拠る宗家の小島家の他、小鷹利城に拠る小鷹利(向)家、蛤城に拠った古川家の三家に分裂して争った。その後、古川家の基綱が勢力を拡大して、小島家に代わって姉小路三家を制した。しかし、子の済継が永正15年(1518年)に急死すると、守護京極氏の家臣だった三木直頼が土岐氏と結んで飛騨国南部を制して戦国大名になった。そして、直頼の子の良頼は永禄3年(1560年)に古川家の名跡を継ぐと、関白の近衛前嗣から「嗣」の字を賜って姉小路嗣頼を称し、国司の姉小路家を奪った。【出典

# 美濃国では、長井氏を継いでいた西村新九郎が斎藤氏の名跡をも継いで斎藤道三となった。さらに土岐氏を追放して美濃国を名実ともに支配した。しかし、その道三も弘治2年(1556年)に長男の義龍に討たれ、永禄4年(1561年)に義龍が死去すると家臣の離反が相次いで、永禄10年に織田信長に敗れて美濃国を追われ、美濃国は信長の本拠地になった。本能寺の変ののちの天正13年(1585年)に豊臣秀吉の命をうけた金森長近が飛騨国に侵攻し、姉小路氏も滅亡した。【出典

戦国時代とは

統計表示