宮城県内の「留守」の名字の詳細 | |
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■ 留守(るす): 宮城県の留守家
# 宮城県の留守家: 藤原北家の出。もとは伊沢氏を称し、奥州惣奉行として陸奥国に下向し留守氏を称した。後に伊達氏に従った。【出典】
・ 仙台藩主の伊達家の一門。藤原北家の出。1190年に伊沢家景が源頼朝から陸奥国の留守職に任ぜられて留守氏を称した。代々、多賀国府(宮城県多賀城市)に住んで、陸奥国を支配した。室町時代の前期までは大崎氏の影響下にあったが、やがて伊達氏の伸長にともなって、その勢力下に入った。1567年に伊達晴宗の三男の政景が留守氏を継ぐと、伊達氏の重臣としての地位を固めた。1590年の秀吉の奥州仕置で留守氏として独立性を失い、正式に伊達家の家臣となった。江戸時代には一門として伊達氏を称し、1629年に水沢(岩手県奥州市水沢区)1万6000石に転じて水沢伊達氏を称した。明治時代には留守氏に復姓した。【出典】
# 陸奥国の戦国時代。藤原北家の出。文治6年(1190年)に伊沢家景が源頼朝から陸奥国の留守職に任ぜられて留守氏を称した。代々、多賀国府に住んで陸奥国を支配した。中世には国分氏とともに、宮城郡を治めた。室町時代前期までは大崎氏の影響下にあったが、やがて伊達氏の台頭に伴って伊達氏の勢力下にはいった。家明は持家ののちに伊達持宗の五男の郡宗を養子に迎えて家督を継がせ、以後は伊達氏の一族になった。景宗は実の兄の伊達稙宗と結んで国分氏と戦った。永禄10年(1567年)に伊達晴宗のときに三男の政景が留守氏を継ぐと、相次ぐ伊達氏からの継承に不満を持つ譜代の家臣の一部を追放、伊達氏の重臣としての地位を固めた。その後、天正18年(1590年)の奥州仕置きで留守氏としての独立性を失い、正式に伊達氏の家臣とされた。【出典】
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