「多賀城」の地名の由来
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■ 多賀城(たがじょう): 宮城県多賀城市

・ 奈良時代に陸奥国の国府として、東北地方の政治・軍事の拠点であった多賀城が当地に築かれたことにちなむ。【都市データパック(市章)・東洋経済新報社】

・ 奈良期から見える城柵名。陸奥国の国府。国府・鎮守府が並置され、さらに陸奥・出羽両国を行政指導する按察使府も置かれた東日本の大政庁。西の大宰府に対する。国府・府中とも出てくる。多賀城という名称が正史に現れるのは、「続日本紀宝亀11年3月22日伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)の反乱の条である。この時現在の宮城県栗原郡所在の伊治城で起こった反乱により、多賀城も失陥し、多年経営の基地がほしいままな略奪に遭い、火をかけられて焼けおちている。江戸期に発見された多賀城碑には「神亀元年に大野東人により築造され、天平宝字六年藤原恵美朝猟(えみのあさかり)が修造した」旨が記されている。これまで多賀城碑は疑問視されてきたが最近はこれを真作とする考えが強い。その際神亀元年を多賀城のほかにも城柵が設けられるようになって陸奥鎮所がそれら新鎮所と区別して、地名によって多賀城と呼ばれるようになった年と考えるなら、ほぼ正しい。【出典】  

・ 多賀城駅(たがじょうえき): 宮城県多賀城市中央。仙石線。多賀城にちなむ。タガとは、高と同義で、峨々たる山が連なっていることを示す。【出典

・ 国府多賀城駅(こくふたがじょうえき): 宮城県多賀城市浮島。JR東日本・東北本線。神亀元年(724年)に、大野東人(おおのあずまびと)により、蝦夷平定のために築かれた城。【出典

・ 多賀郡(たがぐん): 奈良期に見える地名。宮城郡内に権置(ごんち)された郡。多賀・階上両郡とも宮城郡から分け割いたものと考えられる。多賀郡は多賀城の東、「和名抄」にある多賀郷中心に赤瀬・磐城の2郷を含む地と考えられる。階上郡も「奥羽観蹟聞老志」は本吉(もとよし)郡の波路上(はじかみ)(波止上・階上)にあてたが、これは誤りで宮城郡科上(しながみ)郷に当たるとすべきである。これは臨時の措置でやがて宮城郡に併合された。「延喜式」民部の郡には入っていない。【出典

・ 多賀郷(たがのごう): 平安期に見える地名。「和名抄」宮城郡十郷の1つ。多賀城市市川・浮島・高崎、塩竈市にかけての地に比定される。「続日本紀延暦4年4月7日、多賀国府の近くに仮に置かれた多賀郡は、この多賀郷を拡大したものと考えられ、のち郡が廃されて、多賀郷に再編される。【出典

・ 多賀城の「たが」は「たか(高)」の意味。【出典

・ 多賀城: 多賀城の「たが」は、「たか」の意味。各地に、高地に名付けられた「高」「多可」「多珂」「詫賀」「多賀」などの地名がある。見張りが容易で防御の有利な高地に多賀城が作られた。【出典

# 以下のような情報をいただきました。参考のために掲載します

・ 多賀城碑出土地は続日本紀にきされた多賀城跡ではありません。多賀城は賀美郡部内の城郭で伊治城から比較的近距離の所にあった。伊治公呰麻呂の乱国司等が逃げ込んだ多賀城は賀美郡部内の城です。この乱の後、大伴家持は多賀は名取以南十四郡から遠くはなれているので危急に備え権郡を置く事を提言しています。
多賀城碑は偽物です。名取郡近くに多賀城が在る筈がありません。
神亀元年に大野東人は未だ、按察使や鎮守将軍に任ぜられていません。天平九年に多賀柵へ行、雄勝村と多賀柵を結ぶ新道を開きました。里程は百六十里、約80Kmです。雄勝村から多賀城碑出土地の里程は直線距離で100Kmあります。大伴家持の提言通り多賀は名取郡から遠くはなれた場所にあったのです。
多賀城碑文の虚偽に加えて、出土場所が名取郡近くです。拠って、多賀城碑は偽物で、多賀城跡とされる場所は多賀城と全く関係のない遺跡です。

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