最上(もがみ)の名字の謎
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■ 「最上(もがみ)家」はなぜに「最上(もがみ)」の名字か

 まず「最上」という名字は読めるでしょうか?私は地元ですから読めますが、「もがみ」と読みます。多分、他県の人では読めない人も多いのではないでしょうか。

 さて、山形県を代表する戦国大名に「最上義光(もがみ よしあき)」がおります。この「よしあき」も読めない人が多いのではないでしょうか。最上義光は全国的な知名度はさほど高くないかもしれませんが、有名な伊達政宗の叔父(政宗は義光の妹である義姫の子)にあたります。そして、「北の関ヶ原」と言われた「長谷堂の戦い山形市)」で、上杉景勝麾下で重臣の直江景勝軍と戦った武将でもあります。その恩賞として、江戸時代には出羽国山形57万石の大大名となりました。しかし、数十年後には藩内のお家騒動が原因で取り潰しとなりました。

 最上義光の「最上家」は、清和源氏の出で、足利氏の一族の大崎家兼の子の斯波兼頼が羽州探題となって出羽国最上郡に土着し最上氏を名乗ったのが始まりです。そして、その土着して築城したのが山形市の山形城(YOUTUBE)です・・・・・・ここで、山形県人は「あれ?」と思いますよね。なぜなら、山形市は最上郡ではなく村山郡(村山地方)にあるからです。それなら、出羽国村山郡に土着して村山氏を名乗ったはずですよね。 

 それには以下のような事情があります。「最上郡」の歴史をみると、

・ 続日本紀によると、最上郡は712年に置賜郡とともに陸奥国から出羽国に割譲され、歴史上初めて「最上郡」が文献上に表れた。716年に再度陸奥国として表れているが、後に出羽国に移管。886年に最上郡が二分割され、「北は村山郡」「南は最上郡」となったが、太閤検地のころ、南北2郡の名称が入れ替えられ、北が最上郡、南が村山郡となる。

このように、中世以前は村山郡と最上郡って位置が逆転していたようです。これは、いくら「山形オタク」でも知らない人が多いのではないでしょうか。つまり、最上家ができた当時は、山形市周辺は最上郡だったのです。 

# 「最上(もがみ)」の地名

# 今の村山郡と最上郡は逆だった

# 出羽国最上郡

# 藻が湖説

# 水戸黄門と山形の意外な関係

# 【外部リンク】 最上義光歴史館

# 【外部リンク】 山形城【YOUTUBE】

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