大名家の領地の点在 | |
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■ 大名家の領地の点在
江戸時代の藩の領地は、現在の都道府県と同様に一箇所に固まっているというイメージが強いが、実は多くの飛び地があった。
たとえば、出羽国上山藩(山形県上山市)の例をみてもわかるように、上山市から河北町にかけて多くの飛び地で構成されていたことがわかる。
それから、一つの村でみると、山形市の成沢村は、佐倉藩や宇都宮藩の領地として変遷していた。
それから、記憶にあるところでは伊勢国の桑名藩は、越後国の柏崎に飛び地を持ち、そこに赴任する藩士を描いた「下級武士の米日記 加藤淳子 平凡社」でも有名である。
そして、こういった飛び地を多く抱えていたのは、加増、減封、転封を繰り返していた譜代の中小藩に多かった。
例えば後の会津藩祖となる保科正之は、信州高遠3万石から、出羽山形20万石、そして会津若松23万石と転封するわけだが、山形に丁度20万石のまとまった領地があるとは限らない。実際保科家の前領主の鳥居家は24万石だったわけだから、保科家の移封にともなって4万石が余るわけだし、保科家の後の領主の越前松平家は15万石だから、ここでも5万石余る。しかし、逆に足りないケースもあるわけだから、そのときには他の地区の余っている領地を加えるわけである。
ちなみに、ここででてくる越前松平家は「引っ越し大名」でも有名な、あの松平家である。
そういえば、江戸町奉行で有名な大岡忠相(越前)は後に1万石の大名(三河国西大平藩)になるわけだが、陣屋は三河国西大平にあったが、たしか相模国茅ヶ崎が本貫地で、他にも飛び地があったそうだ。墓はたしか茅ヶ崎にあるはず。
このように、大名の領地が一箇所でない例は多いようだ。