大岡忠相
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 歴史的人物のTop

■ 大岡越前(通称)

# 「大岡」の名字の由来

・ 「大岡(苗字)」+「越前守(階位)」+「求馬(幼名)」+「忠右衛門(通称)」+「忠相(諱)」

・ 1677年〜1751年
・ 諱: 忠義・忠相
・ 通称: 求馬・市十郎・忠右衛門
・ 階位: 能登守、越前守

・ 江戸南町奉行として、「大岡裁き」が有名。また、「連座制」を廃止した。「小石川療養所」の設立に尽力。「町火消し」を創設。

・ 徳川家譜代の臣で、八代将軍吉宗の時代に登用され、江戸町奉行から寺社奉行へ。西大平(にしおおひら)藩を立藩。

・ いろいろ書かれた「大岡政談」は87話ほどあるが、実話は「白子屋お熊」の1つだけという。忠相は1677年に、旗本の大岡忠發了傭砲箸靴得犬泙譟後に1920石の旗本の大岡忠真の養子になった。書院番、山田奉行、普請奉行を経て、吉宗が将軍になった翌年に江戸町奉行となった。1736には寺社奉行となり、12年後には1万石の大名になった。

・ 忠相は延宝5年(1677年)、旗本の大岡忠高の四男に生まれた。大岡氏は三河国八名郡宇利郷(愛知県新城市)の大岡忠勝を祖とする。10歳で大岡忠真の養子となり、後に忠真の娘を妻とした。南町奉行になる前は能登守だったが、中町奉行の坪内定鑑が能登守だったので、越前守に変えた。【江戸の名奉行 43人の実録列伝 丹野顯 文春文庫】

# しかし、歴史小説やドラマをみると事実とは異なることも多いから要注意だよなぁ。まぁ、それが当たり前の事ではあるが、意外に教科書よりもこういったもので歴史を学ぶ機会が多いからなぁ。

たとえば大岡越前(忠相)。ドラマでは父親役として大岡忠高がでてくるが、たしかに実の父親だが、忠相は三男で大岡忠真の家に養子に行ってあとを継いでいるから、ドラマの中でみられるようなああいう絡みはありえないんだろうねぇ。

・  大岡越前守忠相は2700石を知行していた奈良奉行の大岡忠高の四男で、10歳のときに一族で1420石の大岡忠真の養子となっている。

・  しかし、忠相が17歳のときに実家の長男の忠品が徳川綱吉の勘気にふれて八丈に島流しになり、忠高も罷免された。また20歳の時に、いとこが刃傷沙汰をおこし一族が連座した。24歳で養家を継いで旗本としてデビュー。不思議なことにその後は順調に出世し、山田奉行以降の話はドラマでもお馴染みである。

・  後に寺社奉行として三河国西大平藩1万石を立藩したが、領地は相模国にもあり、茅ヶ崎あたりに大岡家の墓があったんじゃなかったかなぁ。

・  明治時代には子爵、現在の当主は実業界入りをして、クノール食品の社長や会長を務めたそうだ。

# 大岡忠相が町奉行当時の知行高は3092石。ちなみに、町奉行の役高は3000石。35%の年貢で1372石で年収は2億2226万4000円。【江戸の長者番付 菅野俊輔 青春出版社 ・ 1両:約16万2000円で計算 】
※ ただし、町奉行のお役目の経費分も含むんだろうねぇ?

# 大岡忠相は江戸町奉行を務める前は普請奉行を務め能登守を名乗っていた。そして、前任者の松野壱岐守助義が高齢を理由に辞職したのにともない南町奉行となった。しかし、その際に中町奉行の坪内定鑑が能登守を名乗っていたため、越前守に変えた。【江戸のうんちく 社会と生活 大石学 角川ソフィア文庫】

# 大岡忠相: 大岡忠高(2700石)の家に生まれたが、1686年に、同族の大岡忠真(1920石)の婿養子となった。1700年に24歳の時に家督を継いだ。1702年に書院番に召し出され、1704年に御徒頭となった。1712年に山田奉行となり、その後普請奉行に転じ、1717年に町奉行となった。その後寺社奉行として大名となる。【出典


Help】 「苗字」「階位」「幼名」「通称」「諱」「尊称」「号」「氏」「姓」などはこちらをご覧ください。   

統計表示