本間さまの経済再生の法則
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■ 本間さまの経済再生の法則 童門冬二 PHP研究所

久しぶりに読み返してみるかな。この本は2014年6月19日に買ったものだが、本棚に入れておくと(実際は納戸に積み上げている)、あとから読み返そうと思って探すのが大変。しかし、電子書籍なら一発検索。複数の端末で継続して読み続けることもできるしねぇ。まぁ、買う本の8割は電子かなぁ。

# 本間光丘(みつおか)
山形県酒田市に光ケ丘公園がある。以前は「光ケ丘」は瑞祥地名かなぁと思っていたが、考えてみると本間光丘からとったのかなぁ?

# 童門冬二はこの書の中で、こう言っている。「IT社会は、自己完結能力を高めた。同時に意見形成能力も高めた。そして「うるさい人間」が増えた。」

# この本に書かれているのは「商人(民間人)」が行った藩政改革の一例。主人公は本間光丘(1732〜1801年)で本間家の三代目。本間家は北前船交易で巨万の富を築いた。

# 本間家は大名以上の実力を持った
「本間さまには及びもないが せめてなりたや殿様に」
※ 全国的にはどうかはわかりませんが、山形県内では有名は歌ですねぇ。

# 本間家は「酒田三十六人衆」の一つ。

# 本間家が酒田に住み着いたのは永禄年間(1558年〜70年)といわれ、出身は越前・佐渡・相模説などがある。本間光丘は分家の三代目。
※ 時はまさに戦国時代。上杉景勝が豊臣秀吉の許しのもとに、佐渡に侵攻して本間氏を討伐したのが1589年といいますから、佐渡の出身であればその前に酒田に転じていたことになる。

# 本間家が栄えた要因
・ 借金の担保にとった土地の取得。
・ 北前貿易: 上方から仕入れた商品を売りさばき、当地の商品を上方に送った。

# 本間家は、借金の担保として取得した土地の管理に「差配人」制度を設け、差配人は農民達の入れ札(選挙)で選んだ。

# こういった経済活動の財政管理能力を評価した庄内藩では、財政難に陥った庄内藩の財政立て直しを希望した。
※ しかし、上(殿様)がそう思っても下(家臣)は納得できないのが常。それは米沢藩上杉鷹山の改革でも同じだったねぇ。

# 本間家年表によると、1794年に上杉藩家老の莅戸善政が本間光丘のもとに借金の相談に来た。莅戸善政は上杉鷹山が隠居してからの改革の責任者。隠居前の改革の責任者は竹俣当綱。

# 酒田近郊の五丁野は萱の産地で、周辺の家の屋根はここの萱でふいた。しかし、ここに遊郭をつくろうという動きがおこり、光丘はそれに反対して接待寺を作ろうとした。しかし、遊郭派の商人の賄賂で庄内藩の役人は丸め込まれた。それに対して、光丘は海岸に本間家の負担で防砂林をつくる引き替えに遊郭計画を撤回させようとした。

# 83頁: 光丘曰く、「わたしももとは敦賀の出ですよ」

# 文化とは金のかかるもの
・ 庄内藩の酒井家の七代藩主の酒井忠徳の時代に財政逼迫した理由。
 /慧蝶発を急いだため、菜草地が減少し、労働力が不足した。その結果、農村の労働力だけでなく武家の奉公人も不足した。賃金も上がったのか?
◆/慧蝶発によって生産された余剰米を農家は藩外に売りにだした。それを知った藩では、米の藩外販売を禁止し、商人の領内入国を禁止した。
 藩は豊かになったが、その分、藩士や領民の生活が贅沢になった。
ぁ)詆椶療群蕊畧繊覆手伝い)や、台風、凶作、富士山の噴火の復旧の割り当て(庄内藩は藤枝宿近辺の復旧工事)による出費。
ァ仝淆緘夕腓涼藉鵑老中となり出費がかさんだ。また正室が加賀の前田家からきて、都風で文化度が高かった。その分出費が増えた。

# 本間家の家業は問屋業と金融業。本間光丘は山の上の一本松で、風当たりが強い。 

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