「馬来」の名字の由来
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■ 馬来(まぎ)

【2023/05/23:改編】

# 出雲国仁多郡の国人。「馬木」とも書いた。清和源氏山名氏の一族で、摂津国馬来村発祥と伝えるが不詳。南北朝時代頃に出雲国仁多郡に転じ、夕景城(島根県仁多郡出雲町大馬木)に拠って、尼子氏に仕えた。1560年に毛利氏に敗れて落城、1589年に馬来元貞は毛利氏に仕えて安芸広島に移り、江戸時代には長州藩士となったが、馬木に残った一族もある。【出典

# 出雲国仁多郡の国衆。「馬木」とも書いた。清和源氏山名氏の一族で、摂津国馬来村発祥と伝えるが不詳。南北朝時代頃に出雲国仁多郡に転じ、夕景城(島根県仁田郡奥出雲町大馬木)に拠って尼子氏に仕えた。永禄3年(1560年)に久綱のときに毛利氏に敗れて落城。永禄12年の尼子勝久の再興戦にも呼応したが、のちに毛利氏方に転じた。天正17年(1589年)に馬来元貞は毛利氏に仕えて安芸国の広島に転じ、江戸時代には長州藩士。【出典

# 馬来郷: 鎌倉期にみえる郷名。出雲国神門(かんと)郡のうち。建長元年6月日の「杵築社造営所注進状」、流鏑馬15番の5番として「平田保,合 出雲郷,馬本郷,竹矢郷勤仕同前」とみえる。ここにある「馬本郷」について、「出雲大社文書」および「出雲国造家文書」では「馬来郷」となっており、「鎌遺」の記載は誤読によるものであろう。なお、文永8年11月日の「関東御教書」(千家文書/鎌遺10922)にも「馬木郷三十五丁二反大 多胡左衛門尉」とあり、「鎌倉遺文」はこれを神門郡馬来郷としているが、正しくは仁多郡馬木郷とすべきものと考えられる。【出典

# 馬木(まき): 島根県出雲市馬木町。馬来とも書く。神戸(かんど)川中流部の左岸に位置する。【出典

# 馬木(まき): 真木とも書く。大馬木川の上流域の山間地。広島県境にそびえる烏帽子(えぼうし)山は、「風土記」所載の遊託(ゆた)山である。【出典

# 「馬・駒」のつく名字。 

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