「籠手田」の名字の由来
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■ 籠手田(こてだ) 

【2021/10/18:新載】

# 「体族」の名字

# 長崎県の名字。肥前国松浦郡籠手田(長崎県北松浦郡田平町籠手田)をルーツとする。松浦党の一族。代々、籠手田城に拠った土豪で、江戸時代には平戸藩士明治時代には男爵。【出典

# 籠手田(こてだ)城: 戦国期の城郭名。平山城。城跡は北松浦郡田平町山内免に所在。田平町の中央部を占める里田原(さとたばる)西端の残丘上にあった。城の北側には釜田川が蛇行し,里田原を挟んで北東台地の里城と600mの距離で相対峙していた。城跡から田平港と籠手田の集落など田平町西部を望むことができ、東方は松浦市の陣内城、南西は北松浦郡鹿町町にあった深江氏館へ通じる旧街道を扼す位置である。松浦豊久の三男栄は田平安照の養子となって籠手田左衛門と名乗り、平戸の武将として兄弘定のためその片腕となってこれを援けた。ここに籠手田氏および籠手田城の歴史が始まったものと思われる。栄以降の籠手田氏の活躍はめざましく、延徳3年の平戸・田平合戦、明応7年の相神浦(あいこうのうら)・大智庵(だいちあん)城攻撃に際しては平戸方として奮戦している。さらに永禄年間大村純忠との戦いでは平戸勢の主将として彼杵(そのぎ)・針尾に戦い、元亀3年の壱岐合戦、朝鮮出兵においても平戸松浦氏の重臣としての力を発揮している。しかし松浦鎮信治世下の慶長4年、松浦信実の讒言にあって肥後に追放され、ここに籠手田氏の1世紀余に及ぶ歴史は終わりをつげることになる。現在、城跡は国道204号・国鉄松浦線によって分断されているが、空堀・本丸跡などは良好な状態で残されており、丘陵と河川を巧みに活用した戦国期の城郭形式を伝えている。【出典】 

# 「田」のつく名字。 

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