広島県の戦国史 | |
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■ 広島県の戦国史
# 安芸国の守護は武田氏だったが、のちに左東・安南・山県の三郡を支配する分郡守護(郡主)となって、西方から大内氏、北方から石見国の高橋氏が侵攻してきた。高橋氏の一族は松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)に拠って、この付近の国衆層の盟主的な地位にあったが、永正12年(1515年)に元光が死去すると、跡を継いだ興光が尼子氏方に属していたことから毛利元就の攻撃を受けて、享禄2年(1529年)に弘厚が毛利氏に敗れて自刃して滅亡した。【出典】
# 毛利元就は天文10年(1541年)に大内氏の命を受けて武田氏の銀山城を落として武田氏を滅ぼして、事実上安芸国一国を支配した。さらに、石見国の吉川氏に二男の元春、安芸国の竹原小早川氏に三男の隆景を養子に送り込んで、勢力を拡大した。【出典】
# 備後国は守護の山名氏のもと、南部は足利将軍家の奉公衆の杉氏や杉原氏が勢力を持ち、北部は国衆の山内氏が事実上支配した。【出典】
# 天文22年(1553年)に、毛利元就は山内隆通を支配下とし、弘治元年(1555年)には大内義隆を自害させて実権を握った陶晴賢を厳島の合戦で破って、周防国・長門国を支配し、一躍長門国・周防国・安芸国・備後国・石見国の五カ国を支配する戦国大名へと成長した。さらに永禄9年(1566年)には尼子氏を滅ぼして中国地方の10カ国を支配下にいれた。孫の毛利輝元は織田信長と対立して、天正10年(1582年)には備中高松城で羽柴秀吉と対峙したが、本能寺の変によって信長が急死すると、秀吉と講和をを結んで、秀吉の政権下で五大老の一人になって、安芸国広島で120万石を領した。【出典】
# そのほか、瀬戸内海には海賊衆の村上氏がおり、因島・来島・能島の三家に分かれて瀬戸内海を支配した。因島家は早くから毛利氏に従い、独立勢力としてもっとも大きな力を持っていた能島家もやがて毛利氏の傘下に入った。一方、来島家は豊臣秀吉に従い、江戸時代には久留島氏と改称して、豊後国の大名になった。【出典】
【戦国時代とは】