織田家の人々
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 歴史的人物のTop
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 織田家の人々: 「織田」の名字の由来

■ 織田信長(おだのぶなが)出典】: 「織田」の名字の由来

・ 1534ー1582年。享年49歳(自刃)。
・ 出身地: 尾張国(愛知県)
・ 肩書き: 武将
・ 父:織田信秀 ・ 母:土田御前
・ 正室: 帰蝶(濃姫)斎藤道三の娘。
・ 幼名: 吉法師(きっぽうし)
・ 家紋: 織田瓜(おだか)
・ 尾張国の守護代の清洲織田家の重臣の織田信秀の嫡男。18歳の時に父の死去により家督を相続。その後、1559年に一族の内紛を治め、1560年に桶狭間の戦いで駿河国の今川義元を破った。その後、三河国岡崎城主の徳川家康を結び、武力による天下統一を意味する「天下布武(てんかふぶ)」の印を用いて、畿内を追われていた室町幕府の13代将軍の足利義輝の弟の義昭を奉じて、1568年に上洛した。1573年に足利義昭が信長征討に兵をあげると、義昭を追放して室町幕府を滅ぼした。その後、浅井氏、朝倉氏を滅ぼして近江国に安土城を築いた。1582年に毛利氏征討の途中、京の本能寺に明智光秀の攻撃を受けて自刃した。
・ 主な施策: 楽市楽座。
・ 主な家臣: 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)、明智光秀滝川一益柴田勝家丹羽長秀

■ 織田信雄(おだのぶかつ): 1558−1630年。織田信長の次男。伊勢国国司北畠具教の養子になった。本能寺の変ののちに、織田姓に戻った。豊臣秀吉小田原攻めののち、徳川家康の旧領への移封を拒んで秀吉の怒りを買って剃髪した。【出典

■ 織田信孝(おだのぶたか): 1558−1583年。織田信長の三男。伊勢国の神戸具盛の養子になった。本能寺の変の際には、羽柴秀吉とともに明智光秀を破った。その後は、柴田勝家に近づいて秀吉と対立して、賤ヶ岳の戦いで挙兵したが、勝家が敗れたために、自害した。【出典

■ 織田信忠(おだのぶただ): 1557−1582年。織田信長の嫡男。織田家の家督を継いで岐阜城主になった。戦功をかさねて、1582年に武田家を滅ぼした。本能寺の変では、信長を助けに走ったが明智光秀軍と戦って自害した。【出典

■ 織田長益(おだながます・有楽斎): 1547−1621年。織田信長の弟。織田信秀の十一男。織田有楽斎の名で有名。本能寺の変ののちに、穏健な仲介役をつとめた。千利休に茶をまなんだ。【出典

■ 織田信秀(おだのぶひで): 1508−1551年。織田信長の父。尾張地方の織田大和守家の重臣で清洲三奉行のひとり。尾張国の統一を進めて、美濃国に侵攻したが斎藤道三に敗れて和睦した。今川氏との対立は続いた。1551年に病によって急死し、信長が家督を継いだ。【出典

■ 織田信行(おだのぶゆき): ?−1557年。織田信長の弟。兄とは似ずに礼儀正しく期待された。父の死後、末盛城を受け継いだ。二度も信長に謀反を企てたが失敗。一度目は母の仲介で収まったが、二度目は清洲城で暗殺された。【出典

■ 織田秀信(おだひでのぶ): 1580−1605年。織田信忠の嫡男。三歳のときに本能寺の変後の清洲会議で羽柴秀吉の擁立によって織田家の家督を継いで、安土城に入った。のちに、豊臣秀吉に従って、関ヶ原の合戦では西軍に属し、降伏。高野山に送られたが追放された。【出典

# 信長の嫡男の信忠は本能寺の変の際に二条城で討ち死に。信忠の子の三法師丸は、後に織田秀信と名のり、権中納言で岐阜城主(13万3千石)。しかし、関ヶ原の合戦で西軍に組し、高野山に送られた。

# 織田信雄の嫡男の織田秀雄は、秀吉から越前大野5万石をもらったが、関ヶ原の合戦後に改易、断絶。織田信雄は大和国松山5万石。1616年に四男の信良に上野国小幡2万石を分知し、大和国松山は五男の高長が継いだ。高長の孫の信武は元禄年間に、不祥事により減封され丹波国柏原2万石。信良の家系は、後に出羽国高畠から出羽国天童に転封

# 織田信長の三男の信孝は信雄との争いで自刃。
※ ちなみに、信孝は、尾張国知多半島内海の大御堂寺で切腹させられたが、ここは源義朝が暗殺された場所。

# 秀勝は秀吉の養子となり、丹波国亀山城主となったが、1585年に死亡。

# 勝長は、本能寺の変の際に兄の信忠と一緒に二条城で討ち死に。

# 信長の側室のお鍋の方の子の信高の子孫は、江戸時代には旗本

# 信吉は関ヶ原の戦いで西軍に組して失脚。

# 信貞の子孫は旗本尾張藩士

# 信好(のぶよし)は消息不明。

# 長次は関ヶ原の戦いで西軍に組して討ち死に。

# 織田信秀の四男の織田信包は伊勢国豪族長野氏を嗣いで安濃津城主となり、その後丹波国柏原に移ったが、孫の信雄の死後に無嗣断絶。信包の長男である織田信重は伊勢林で1万石を領したが、後に除封

# 織田信秀の十一男の長益(有楽斎)は関ヶ原の戦い後には摂津国味舌(ました)3万石。後に、五男の織田尚長が柳本1万石、四男の織田長政が戒重(後に芝村)1万石。長男の織田長孝は美濃国野村1万石だったが無嗣断絶。

【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

# 織田家の家紋


Help】 「苗字」「階位」「幼名」「通称」「諱」「尊称」「号」「氏」「姓」などはこちらをご覧ください。   

統計表示