兵庫県内の「九鬼」の名字の詳細
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■ 九鬼(くき): 兵庫県の九鬼家

# 兵庫県の九鬼家: 摂津国三田藩主紀伊国牟婁郡九鬼(和歌山県尾鷲市九鬼町)をルーツとする。明治維新後には子爵。【出典】 

・ 三田藩主。志摩の戦国大名九鬼氏の子孫。紀伊国牟婁郡九鬼(三重県尾鷲市九鬼町)をルーツとする。藤原氏の出や源氏の出など諸説あるが、熊野別当氏の一族か。九鬼嘉隆豊臣秀吉に仕えて志摩鳥羽で3万石を領し、関ヶ原の戦いでは西軍に属して答志島で自害。東軍に属した子の守隆は、戦後2万石を与えられて父の遺領と合わせて鳥羽5万5000石となった。1632年に守隆が死去した際に、長男の良隆が廃嫡されたことから、三男の隆季と五男の久隆の間で家督相続争いが起こり、翌年幕府の裁定で久隆が3万6000石を継いで摂津三田に転封した。明治時代には子爵。【出典】 

# 摂津三田藩主九鬼家は、志摩で水軍を率いた戦国大名末裔。紀伊国牟婁郡九鬼(三重県尾鷲市九鬼町)をルーツとする。出自藤原氏とか、源氏など諸説有るが、熊野別当氏の一族か。南北朝時代以降から歴史上に登場するが、室町時代にはその活動がはっきりせず、水軍として歴史に登場するのは戦国時代後期の嘉隆から。1574年に、織田信長が伊勢の一向一揆を攻めた際、水軍を率いて海上を封鎖したのが志摩の海賊衆の九鬼嘉隆であった。織田信長の死後は、豊臣秀吉に仕えて志摩鳥羽3万石。関ヶ原の合戦では、嘉隆は西軍、次男の守隆は東軍に属し、戦後嘉隆は自害した。守隆は父の遺領と合わせて鳥羽5万5000石を立てた。1632年に守隆が死去した際に、長男の良隆が廃嫡され、三男の隆季と五男の久隆の間で家督相続争いがおこり、翌年幕府の裁定で久隆が3万6000石を継いで摂津三田に転封となった。明治時代には子爵。【出典】 

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