兵庫県内の「脇坂」の名字の詳細
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■ 脇坂(わきさか): 兵庫県の脇坂家

# 播磨国龍野藩主の脇坂家は、近江国浅井郡脇坂荘(滋賀県長浜市湖北町)をルーツとする。寛政譜では浅井氏の出と言うが、安明以前ははっきりせず、出自不詳。安明の子の安治は羽柴秀吉に仕え、1583年の賤ヶ岳の合戦で活躍、七本槍の一人となり3000石に加増。以後累進して、1585年には淡路洲本で3万石を領した。1600年に関ヶ原の合戦では西軍について小早川秀秋に属したが、東軍に内応して開戦後に寝返った。1609年に伊予大洲藩5万3500石を立てた。1672年に安政のときに播磨龍野5万3000石に転封明治時代には子爵。【出典

# 兵庫県の脇坂家: 播磨国竜野藩主(兵庫県たつの市)で、脇坂荘(長浜市)をルーツとする。脇坂安治豊臣秀吉に仕えて、洲本(兵庫県淡路島)藩3万石の藩主となった。【出典

・ 播磨国竜野藩主(5万3000石)。明治維新後には子爵

・ 播磨国龍野藩主。近江国浅井郡脇坂荘(滋賀県長浜市湖北町)をルーツとする。明治維新後には子爵。【出典】 

・ 竜野藩主。近江国浅井郡脇坂荘(滋賀県長浜市湖北町)の出で、安治が豊臣秀吉に仕えて賤ヶ岳合戦で活躍、七本槍の一人となって淡路洲本で3万石を領したのが祖。関ヶ原の合戦では西軍に与して小早川秀秋に属したが、開戦後に東軍に寝返った。その後、伊予大洲藩5万3500石、1617年に信濃飯田5万5000石を経て、1672年に播磨竜野5万3000石へ。1836年には安篁が西の丸の老中となり、翌年には本丸の老中となった。明治時代には子爵。【出典】 

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