石川県の戦国史
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■ 石川県の戦国史

# 文明6年(1471年)に蓮如越前国吉崎(福井県あわら市)に下向して北陸地方に真宗(一向宗)の布教を始めた。これによって加賀国守護勢力の一部と一向宗徒は、それぞれの反対勢力の打倒の一揆(惣国一揆)を形成した。長享2年(1488年)には加賀国の守護の富樫政親を倒し(長享一揆)、その後は富樫氏を名目的な守護として推載しつつ、本願寺門徒による自主管理体制を確立して守護大名の支配を排除して、「百姓の持ちたる国」といわれる門徒領国が成立した。【出典

# 当初、一揆は蓮如の子の蓮悟が配置された加賀国河北郡若松本泉寺、能美郡波佐谷松岡寺、江沼郡山田光教寺の加州三カ寺が支配したが、享禄4年(1531年)の「享禄の錯乱」以降は本願寺が直接支配した。【出典

# 一方、能登国は代々畠山氏守護を務めていたが、内訌が続いて弱体化した。永禄9年(1566年)には義続・義綱父子が重臣によって追放され、義綱の子の義慶が擁立された。そして、天正5年(1577年)の上杉謙信の能登侵攻では重臣の遊佐氏が内応したため落城して、能登畠山氏と守護代長尾氏が滅亡した。【出典

# 以来、越前国朝倉氏越後国上杉氏と戦い続け、天正元年(1573年)に朝倉氏が織田信長に敗れて滅亡、天正6年には上杉謙信が死去して上杉氏が加越能から撤退、以後は織田信長と対峙した。【出典

# 天正8年、大坂の石山本願寺が織田信長の前に陥落し、加賀国の一向一揆も解体された。また、上杉氏が撤退した能登では、七尾城の落城の際に脱出した守護代長尾氏の一族である連龍(好連)が織田信長に仕え、長氏を再興した。翌年、能登は前田利家に与えられ、長氏はその重臣になった。そして、天正11年(1583年)に豊臣秀吉が賤ケ岳の戦いで柴田勝家を降すと、前田利家は秀吉に降り、戦後金沢に転じて加賀・能登両国を領した。【出典

戦国時代とは

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