「長田」の名字の由来
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■ 長田(ながた、おさだ)

【2022/09/26:改編】

# 260位【知っておきたい家紋と名字 別冊宝島】

# 全国順位は460位。【出典

# 「長田」の名字の軒数

# 代表家紋

# 西日本では「ながた」読みが多い。【知っておきたい家紋と名字 別冊宝島】

# 西日本では岡山県を除いて「ながた」と読むことが多い。

# 古代豪族の長田氏は摂津国八部郡長田郷(兵庫県神戸市長田区・ながたく)をルーツとし、姓(かばね)は村主(スグリ)

# 信濃の長田氏は信濃国諏訪郡長田郷(長野県茅野市)をルーツとする。

# 因幡の長田氏は因幡国高庭荘(鳥取県鳥取市)をルーツとする。

# 富山県の長田家

# 石川県の長田家

# 長野県の長田家

# 兵庫県の長田家 

# 長田家(おさだけ): 平治の乱において、東国に落ち延びようとした源義朝をだまし討ちにしたのが三河国の長田(おさだ)忠致(ただむね)。その一族の長田直勝は、当初は松平信康に仕えたが、のちに家康の直臣となった。しかし、長田は源氏にとって縁起が悪いとして、家康から「永井」に改姓された。直勝は関ヶ原の戦いの後、小幡、常陸を経て、下総国古河7万2千石。その後一時除封されたが、大和国新庄1万石、その後櫛羅に転じた。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

# 駿河国有度郡長田村(静岡県静岡市)があるが、天平年間に、他田舎人の居住地が長田の地名になったとも、また長田庄司が住んだからとも言われる。駿河国有度郡長田村より発祥したのは、桓武平氏流とも橘氏流とも言われ、長田入道父子は1180年に駿河国の目代の橘遠茂に従って富士山麓で武田氏と戦って敗死した。長田入道は、「東鑑」に駿河国有度郡鎌田(静岡市)の駿河国の目代の長田忠致とあり、平治の乱に敗れた旧主の源義朝主従が尾張国に逃れ忠致の館に逗留した際に、子の景致と謀殺した。長田庄司貞家は1221年に、尾張国から遠江国磐田郡西浅羽村(静岡県浅羽町)に移り住み、王子神社を再建したと伝える。1233年に、駿河国志太郡川口村(静岡県島田市)の清源寺を開基した長田左衛門宗光は後に永田右衛門太郎と改名し、元和年間のころの子孫に永田衛門太郎がいた。1351年に、長田庄の長田五郎次郎は足利直義に味方し、今川方に攻められて館を焼かれ、1423年に駿河国下鴨を開発した長田氏は長田入道の子孫で、大永年間後裔を長田四郎太郎親重という。【出典

# 伊豆国では、賀茂郡稲梓村(静岡県下田市)に長田致房が一時住んで賀茂二郎を称し、四代孫の忠致の三男の長田三郎も落居村(南伊豆町)に逃れ住んだという。子孫の長田八郎左衛門尉重秀は永正16年に、高根神社を再興し、永禄時代初期に、北条氏の家臣の長田但馬守は伊豆兵衛森を知行した。【出典

# 「長田」の地名

# 「田」の漢字の持つ意味

# 古代豪族の長田氏

# 「田」のつく名字

# 「長」のつく名字

■ 他田(おさだ)

【2022/04/16:新載】

# 代表家紋

# 「長田」に通用することがある。敏達常御名代他田部からくる。【出典

# 「田」のつく名字

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