「間島」の名字の由来
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■ 間島(まじま)

【2022/12/05:新載】

# 播磨国明石郡の国人赤松氏の一族。宇野則景の子の景能を祖とし、赤松御一族衆十八家の一つ。景能は、1333年に大塔宮の令旨を受けた赤松則村に従って六波羅を攻め、のちに播磨国明石郡平野荘(兵庫県神戸市西区)を領した。南北朝時代には摂津国守護代もつとめた。嘉吉の乱では坂本城に籠城して赤松氏とともに一旦滅んだが、1456年に南朝から神璽の奪還に功を上げ、赤松氏のもとで加賀国守護代をつとめた。応仁の乱後に播磨国の平野荘に戻った。豊臣秀吉の播磨侵攻の際に氏勝が従って福中城主となり、1583年には淡路国の岩屋城(兵庫県淡路市)城主になった。しかし、豊臣秀次連座関ヶ原の合戦では西軍に属して帰農した。【出典

# 播磨国明石郡の国衆赤松氏の一族。宇野則景の子の景能が祖で、景能は赤松則付に従って六波羅を攻めて、のちに播磨国明石郡平野荘(兵庫県神戸市西区)を領した。南北朝時代には摂津国守護代も務めた。嘉吉の乱では坂本城に籠城して赤松氏とともに一旦は滅んだが、康生2年(1456年)に、南朝からの神璽奪還で功を成し、赤松氏のもとで加賀国の守護代を務めた。応仁の乱後には播磨国平野荘に戻った。豊臣秀吉の播磨侵攻に際しては氏勝が従って福中城主になって、天正11年(1583年)には淡路国の岩屋城(兵庫県淡路市)城主になった。しかし、豊臣秀次に連座して、関ヶ原の合戦では西軍に属し、その後は帰農した。【出典】  

# 兵庫県の間島家

# 「島・嶋」のつく名字

# 「間」のつく名字

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